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2008年2月

丹波篠山

3月2日(日)はABC篠山マラソンが開催される。

これにちなみ、丹波篠山の歴史について。

このあたりの歴史で有名なのが、織田信長による丹波攻略。

丹波に長年勢力を張る”波多野氏”がこもる難攻不落の名城

八上城を織田信長の命を受けた羽柴秀吉、明智光秀らが

前後11回にわたって攻めるのだが、びくともしなかった。

波多野 秀治が言う、

「信長め、何度来ちゃっても、お前にこの城が落とせるけ。」

しかし最後には明智光秀によって落とされるのだが、

この時も、光秀は攻めあぐみ、悩んだあげく、

「おうじょうこくのぉ、上様を怒らせると、どえれぇおそがい

(怖い)でいかんわ。わしの母親を人質にするさけぇ、

開城しやぁ」

と言って和議を成立させ、秀治を城から連れ出し助命を

信長に乞う。  しかし、信長は、

「おみゃあは何を勝手にさらすがや、そいつはすぐに殺してちょ」

恐ろしい信長の命令には逆らえず、結局殺してしまう。

このためもちろん母親も城内の外部からも見えるところで

磔にされたと言う。

まあこれは、光秀が信長に恨みを持つ理由を作りたかった

後世の誰かの創作らしいですが・・・。

この八上城は、現在は高城山、丹波富士とも言われる美しい山

の上にあったそうで、今でも篠山城の城跡から眺めることが

出来る。

関ヶ原の合戦後、徳川家康は、まだ大阪に残る豊臣秀頼、また

中国、九州に健在な豊臣恩顧の西国大名たちに、にらみをきかす

ために、主要ないくつかの要衝に、天下普請(幕府の命で全国の

諸大名を動員しての工事)で築城を行う。

そのひとつがここ篠山城。

築城の名人、”藤堂高虎”の縄張りで、普請奉行”池田輝政”が

西国大名を動員して築かれた。

八上城が難攻を誇る山城であったのに対し、篠山城は、経済

優先の平城であることも時代を現していて面白い。

平城であるにもかかわらず、その縄張りの見事さから、この城は

堅固でありすぎるとして、幕府は天守閣を築かせなかったことも

このお城の面白いエピソードである。今は大書院しかないが、

天守閣は壊れたとか、焼失したわけでもなく、元から無かった

のである。天守台まで作ったのにねぇ。

そして家康の実子と言われる松平康重が城主となり、

この後、松平氏三家八代、青山氏六代を経て明治に至る。

お城の周辺には、御徒士町武家屋敷群、安間家資料館などの

武家屋敷や、また江戸時代の商家の町並みも残っている。

マラソンを走る前、走った後にでも、城下町の風情に

ひたってみるのもよろしいんではないでしょうか。

桜井の別れ

仕事で訪れた大阪府三島郡島本町。

大阪府の郡も少なくなってきたがそのうちのひとつ三島郡、

高槻と山崎の間になる。阪急の駅でいえば"水無瀬"。

ここには"太平記"ゆかりの史跡がある。

Photosakuraiekiato8

史跡内はたくさんの

楠が生い茂っている。

九州から攻め上がってきた足利尊氏を迎え撃つために、湊川へ

向かう楠木正成が後事を託す嫡子 正行(まさつら)と別れを

惜しんだ西国街道の”桜井の駅”跡である。

Photosakuraiekiato7

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楠木正成。

この人を知らない人はいないと思うが、もともとは河内の土豪。

ひょんな事から後醍醐天皇と出会い、ぽんと肩をたたかれた

ために意気に感じ、後醍醐のために奮戦することになってしまう。

こんなことがなければただの大阪(当時この地名はないが)の

河内のおっさんとして、歴史の中に埋もれていたであろうのに。

時は1334年、この楠木正成、足利高氏(尊氏)、新田義貞など

の力を借り、後醍醐は建武の親政を実現させる。

ところが始まってみると、天皇親政とはいえ、やってることは

公家の好き勝手。世の武士たちの不満を結集させて鎌倉幕府を

倒したのに、功績のあった武士たちに報いるところがあまりにも

少なすぎた。また新たな不満が世にはびこりだす。

これに乗っかったのが足利尊氏、反逆の旗を揚げる。

しかし、いったんは楠木正成、新田義貞、奥州の北畠親房、顕家

父子などの奮戦で尊氏は九州まで追い落とされる。

しかし全国の武士たちの期待を一身に背負った尊氏はすぐに

勢いを盛り返し、大軍を率いて京へ向かって攻め寄せてくる。

これに対し楠木正成が後醍醐に示した戦略は、京は攻めるに易く、

守るに難い土地である、ここはいったん京をあけわたし、

比叡山に登り、改めて京を攻めるというもの。

野武士、土豪などが得意とするゲリラ戦術である。

多勢に無勢を考えればこのとき取り得る最善の策であっただろう。

しかし、この時公家たちが一斉に声をあげる。

「一戦もせずに逃げ出すとはどういうことだ」

「天皇の権威にかかわる」

「尊氏がそんなに怖いか」

「臆病者」

そんな声に押しきられるように楠木正成は、尊氏迎撃の命を

受けて後醍醐天皇の御前を退出する。

「お上はこの正成に死ねと言われるようだ」

討死を覚悟した正成は京から西国街道を西へ向かう。

そしてここ桜井の宿で数え年11歳の嫡子正行にあとを託す。

Photosakuraiekiato21

                                   

      

                                  

「わいはあの尊氏をしばき倒しに行くけど、多分やられてまうから

おまえは家帰って力をつけてあの天皇はんを助けたれ」

同行をせがむ正行にこう諭した後、兵庫へ向かいご存知

”湊川の合戦”で弟正季と共に戦死する。

この戦死直前に正季と語った言葉、

「七回生まれ変わって朝敵をやっつけたる、

河内のおっさんをなめたらあかんどー」

これが”7生報国”という言葉を生み、太平洋戦争でも

日本軍の合言葉になってしまうという悲しい歴史につながる。

死をも顧みず”忠”を貫いた正成には感動しますが、

これを戦意高揚の道具に使ってはいけませんよね。

ちなみにこの正行も正成と同じように南朝への”忠”を貫き

”四条畷の合戦”で戦死するし、その後も、楠木家の一族郎党は

すべて南朝方として戦いつづけていく。

太平記の名場面でした。

野洲弥生の森歴史公園

去年の今ごろ、缶詰になっていた滋賀県野洲の現場、

いまだに、あれやこれやで度々引っ張られている。

この日もまた来るはめになったが、少し時間が出来たので、

以前より気になっていた銅鐸博物館を訪れる。

しかし、・・・・・・休館日。そらないでぇ。何たる間の悪さ。

がっくりしながら周りを見渡すと、この博物館はちょっとした

公園の中に立っており、弥生の森歴史公園というらしい。

よく見れば竪穴式住居や高床式倉庫が並んでいる。

まるっきり無駄足でもなかったワイとホクホク顔で見学。

1

こういう史跡公園は以前に

長崎出張の帰りに行った、

吉野ケ里遺跡公園以来だ。

                 

                                   

さすがに吉野ヶ里の規模には遠く及ばないが、

Photo これは高床式倉庫の

ねずみ返し。

こんな板一枚でねずみが

上がれない。

知恵ですねぇ。

Photo_3 葦ぶき。

白川郷などで現代にまで

つながる日本の屋根の

ルーツ。

                                   

公園内には古代米の赤米の田んぼもある。

Photo_2

毎年収穫しているらしいし

季節に合わせて来れば、

田植えや稲刈りの体験学習も

出来るそうな。

少しお勉強しました。

滋賀県琵琶湖のまわりは、はやくから開けていたため、石器、

縄文、弥生はもちろんのこと、古墳時代から奈良時代まで、

遺跡の宝庫。それだけ暮らしやすい土地だったんだろうね。

この公園内にも古墳時代の宮山2号墳と呼ばれる古墳がある。

Photo_4  Photo_7                                    

                                     

                                     

                                  

このあたりいったいの古墳群を総称して大岩山古墳群といわれ、

全部で17基発見され、内8基が国の史跡に指定されている。

年代的には3世紀から6世紀、一番新しい宮山2号墳が、

6世紀後半のものとされている。つまり弥生時代の終わりから

大化の改新の前まで300年にわたって場所を移動しながら

古墳が作られつづけたようだ。

この大岩山古墳群の主は当時このあたりの地方豪族であり

国造(くにのみやつこ)であった近江之安値(おうみのやすの

あたい)氏であるらしい。ということは”やす”という地名もかなり

古い地名なんだ。”なら”などもそうだが、2文字の地名は古い

地名が多い、単語の量も少なくて文字二つの組合せで

事足りていたということかな。

Photo_8

これは銅鐸博物館前にある

大きな銅鐸のオブジェ。

                 

                 

ちなみに出雲地方で40個の銅鐸が発見されるまでは

このあたりで発見された24個が最多だったらしい。

また高さ134.7センチの日本最大の銅鐸はここの出土。

あぁ、銅鐸博物館みたかったなぁ。

紀州口熊野マラソン

2月3日(日)は、和歌山県西牟婁郡上富田町で行われた

紀州口熊野マラソンに参加。

あったかくて気持ちのいい大会なので毎年参加している。

しかし今年は少し事情が違う。

なんと嫁が初めてフルマラソンに挑戦するレース。

夏ごろから少しづつ走り出し、この頃では30キロ超え程度

までは走れるようにはなっていたが、初の42.195キロ、

おまけに練習で少し足を痛めているようで、足首を固めた

ままでの出走。さらに、早朝から雨模様の中、会場に車で

向かっていると、雨が雪に変わりだし、高速道路上にも

少なからず積もりだす。

これは雪で中止か、大幅な遅れで間に合わないか、など

いろいろな心配が発生する。

しかい幸いにも山ひとつ超えるたびに気候は改善し、何とか

到着。さすが南国紀の国だ。

雨でどろどろの駐車場から会場入り、さっさと受付を済まし

着替える。雨のため建物内は人でごった返している。

嫁と会えず、みんなに走り回ってもらった、すみません。

そうこうしているうちにスタート時間だ。

緊張はしていないみたいだ。  ドン

ハーフ出場組が見送ってくれる。多分お待たせするとは

思いますがよろしく。

距離表示は一キロごと、チェックしていく。

スタートの混雑でゆっくりだ。2キロ13分ぐらい。

よしよし。少しすいてくるとスピードが上がる、6分8秒

おいおい、5分53秒、それは速すぎ。

なかなか安定しない。こらこら、上り坂でスピードがあがる。

ばねを使うと、最後に効いてくるぞ。

7,8キロで6分20秒程度で安定してきた。

緩やかな上りだからこんなもんだろう。

10キロ付近、ぼそっと一言、「まだ10キロか」

ちがうちがう、「もう10キロだ」。

写真を撮りたいけど、雨で出せない。

こっちは少し暑くなってきて、カッパを脱ぐ。

脱ぐと少し寒い。17キロ付近、ちょっとした峠。

そろそろ、上りが嫌になってきたようだ。

6分30から40秒、じりじりと落ちている。

そろそろエイドのバナナ、チョコレートに手が伸びる。

雨もほぼやんできたので撮影開始。

Photo

                                                                              

                                                                           

                                                                           

前方よりパトカー、先頭がもう折り返してきたか?

いやいや、予告だけでした。

しばらくすると白バイの先導でトップの二人とすれちがう。

さすがダイナミックなフォームで速い。

Photo_2

                                                                            

                                                                              

                                                                           

何キロ差がついてんのかな、なんて思いながら走りつづける。

ラン仲間のKBやんがまじめに走っていれば、そろそろ

すれちがうはず。

来た。

Photo_3

                                                                           

                                                                            

                                                                           

この後、少しこっちと並走してくれる。ありがとう。

さあ、そろそろ半分だ、これからだぞー。

このへんからエイドにアンパンが登場。

大好物に付、もれなくいただく。

キロ時間は7分30秒くらいまで落ちてきた。がんばれ。

よーし、折り返しだ。

Photo_5

                                                                            

                                                                                                                                                      

復路は下り基調。少し楽なようだ。調子が上がる。

エイドでは梅干しが出ている。なかなかうまいらしい。

この辺では毎年、私設エイドがあって、おにぎりが置いてある。

今年はない・・・。 悲しい。めっちゃうまいのに。

実は福知山でエイドを出した時、作ったおにぎりはここで食べた

おにぎりのイメージでした。

気を取り直し先を急ぐ、急ぐ。おっ、どんどん調子が

上がってくる。

Photo_4

                                                                            

                                                                                                                                                      

と思ったとたん、立ち止まってしまう。

太ももの裏が痙攣し始めたらしい。

少し調子に乗りすぎたか・・・。

しばらく止まった後、ぼちぼち歩き出す。

収容車の影がよぎる。

トイレがあったのでおじゃまする。

嫁は「先行っとくよ」とのこと。

用をたして出てくると、見通しのよい道にもかかわらず、

見当たらない。走れるようになったのかな。

ぜえぜえといって追いかけるとかなり先まで進んでいる。

この分なら大丈夫そうだ。

ただスピードはかなり落ちてしまっている。

ここからはもう粘るしかない。

手を振って、リズムで最後まで行こう。

いっちに、いっちに。

ハーフのみんなももうゴールして、風呂入ってるかな。

きっとうどんも食っているだろうなぁ。

お土産に梅を買ってるかな。みかんもおいしいぞ。

などと思いつつ、37キロ地点 4時間23分ぐらい。

5時間切れるかどうかやな。

いっぱい待たせちゃったね。

などといいながらもう少し行くとぜんぜん足が動かなく

なってきた。1キロ8分以上かかりだす。

8分30秒、次は40秒、どんどん落ちる。

けど止まらないのは立派。もう少しだ。

最後の橋が見えてきた。

ラスト1キロ。

ゴールして帰り支度のランナーたちが声をかけてくれる。

「もう少し」、「ラストや」、「がんばれ」。

「がんばってるやつにがんばれというな」という誰かの

つっこみを思い出しながら、ゴールへ近づく。

みんなの姿がみえた。何か芸をしてゴールしなくっちゃ。

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