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野洲弥生の森歴史公園

去年の今ごろ、缶詰になっていた滋賀県野洲の現場、

いまだに、あれやこれやで度々引っ張られている。

この日もまた来るはめになったが、少し時間が出来たので、

以前より気になっていた銅鐸博物館を訪れる。

しかし、・・・・・・休館日。そらないでぇ。何たる間の悪さ。

がっくりしながら周りを見渡すと、この博物館はちょっとした

公園の中に立っており、弥生の森歴史公園というらしい。

よく見れば竪穴式住居や高床式倉庫が並んでいる。

まるっきり無駄足でもなかったワイとホクホク顔で見学。

1

こういう史跡公園は以前に

長崎出張の帰りに行った、

吉野ケ里遺跡公園以来だ。

                 

                                   

さすがに吉野ヶ里の規模には遠く及ばないが、

Photo これは高床式倉庫の

ねずみ返し。

こんな板一枚でねずみが

上がれない。

知恵ですねぇ。

Photo_3 葦ぶき。

白川郷などで現代にまで

つながる日本の屋根の

ルーツ。

                                   

公園内には古代米の赤米の田んぼもある。

Photo_2

毎年収穫しているらしいし

季節に合わせて来れば、

田植えや稲刈りの体験学習も

出来るそうな。

少しお勉強しました。

滋賀県琵琶湖のまわりは、はやくから開けていたため、石器、

縄文、弥生はもちろんのこと、古墳時代から奈良時代まで、

遺跡の宝庫。それだけ暮らしやすい土地だったんだろうね。

この公園内にも古墳時代の宮山2号墳と呼ばれる古墳がある。

Photo_4  Photo_7                                    

                                     

                                     

                                  

このあたりいったいの古墳群を総称して大岩山古墳群といわれ、

全部で17基発見され、内8基が国の史跡に指定されている。

年代的には3世紀から6世紀、一番新しい宮山2号墳が、

6世紀後半のものとされている。つまり弥生時代の終わりから

大化の改新の前まで300年にわたって場所を移動しながら

古墳が作られつづけたようだ。

この大岩山古墳群の主は当時このあたりの地方豪族であり

国造(くにのみやつこ)であった近江之安値(おうみのやすの

あたい)氏であるらしい。ということは”やす”という地名もかなり

古い地名なんだ。”なら”などもそうだが、2文字の地名は古い

地名が多い、単語の量も少なくて文字二つの組合せで

事足りていたということかな。

Photo_8

これは銅鐸博物館前にある

大きな銅鐸のオブジェ。

                 

                 

ちなみに出雲地方で40個の銅鐸が発見されるまでは

このあたりで発見された24個が最多だったらしい。

また高さ134.7センチの日本最大の銅鐸はここの出土。

あぁ、銅鐸博物館みたかったなぁ。

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コメント

ジャンさんお得意の歴史ネタ、興味深く読ませてもらいました^^
2文字の地名は古いんですか?
やす って言うのは、サッカーで有名になった野洲高校の、やすですよねェ。

そうです。そのやすです。
古い地名というのは面白いですよ。
中国から漢字が伝わる前に音だけがあった時代にも
地名はあったわけですから、古代人は何を考えてこの地名にしたのか、なんて考えていると夜も寝れなくなります。地下鉄を入れた場所を考えるより面白いと思いますよ。

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