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紀州口熊野と田辺

今週末は紀州口熊野マラソン、和歌山県は上富田町、大塔町、

中辺路町で開かれる大会で、ここ4~5年は毎年参加している。

地域が一体になって手作りで大会を盛り上げているので

雰囲気がよく、あったかい感じがして気に入っている。

今年も嫁ともどもエントリー、楽ランからもT姐さん、Kばやん、

Kみちゃん、CHエイスさんも出場予定だ。

今回は走る前に歴史の予習をしていきましょう。

さてさて、紀州口熊野とは何ぞや?

紀州はもちろん紀伊の国、口熊野とは熊野への道

熊野古道の入口という意味らしい。

熊野周辺は日本書紀にも登場する自然崇拝の地である。

日本書紀、神代記に伊邪那美命が死んだ時、熊野の有馬村と

言うところに葬られたという記述があるそうな。

古来、熊野は山岳信仰から修験道の修行の地とされた。

その中から、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社が

興ってくる。

その祭神は、それぞれ家都美御子神(けつみみこのかみ)、

牟須美神(むずびのかみ)速玉神(はやたまのかみ)である。

やがてこの三社それぞれの神が、三社共通の祭神になっていく。

また神仏習合により、家都美御子神は阿弥陀如来、

牟須美神は千手観音、速玉神は薬師如来とされ、熊野三山と

呼ばれ、仏教的要素が強くなっていく。

また熊野三社で祀る神の総称を熊野神、熊野権現などとも言う。

権現とは仏や菩薩が人々を救う為に仮に神の姿で現れること。

いったい神さんなの、仏さんなの、どっちやねん。

日本人ってほんとに面白いね、勝手に解釈作って、何でもOKというか、

長所でもあるんだけどね。

外国の敬虔な宗教家から見ると理解できないらしい。

さて熊野参詣は、907年、宇多法皇(誰かの名前に似てるぞ)

に始まり、頻繁に行われるようになったのは1090年からの

白河上皇の9回の行幸から。

この後京都の公家の間で熊野詣が流行りだす。

後白河上皇にいたっては33回も行幸している。

これに伴い、熊野街道が発展し、街道沿いに九十九王子と

呼ばれる熊野権現の御子神が祀られた。

この九十九王子についてはよくはわかっていないようだ。

熊野までの参詣者の庇護を祈願したのではないか

というのが一般的らしい。

熊野三山遥拝を行ったのではないかと言われたが

史料上にはその記録はなく、また参詣の時の宿だとか、

物品の補給を行ったとかもいわれるが、帰路にはほとんど

顧みられていないところからこの説もあたらないといわれている。

72210

                   

つまり中世の皇族、公家たちが

参詣するおり、先達を努めた

熊野の修験者たちが京都からの

道中、紀伊路、中辺路、大辺路で

住人の祀る雑多な神々である諸社を王子という名で呼び、

熊野権現の御子神と認定して参詣の道中の安全を願ったと

いうところか。この王子も鎌倉時代以降は衰退する。

さらに時代がくだると、伊勢参りと並び、熊野詣は広く

武士、庶民が行うようになった。

熊野と浄土信仰の繋がりが強くなると、念仏聖や比丘尼のように

民衆に熊野信仰を広める者もあらわれる。

次第に民衆も熊野に頻繁に参詣するようになり、「蟻の熊野詣」

と呼ばれ熱狂的に人々の心を熊野へと駆り立てた。

一時は熊野付近の旅籠に1日で800人もの宿泊が記録された

こともあったそうだ。現代の行楽地と比較してはいけません。

人が動くことが少なかったあの時代では驚異的な数字です。

また、各社で発行される熊野牛王符は護符としてのほかに、

起請文(誓約書)の料紙として使われ、この牛王符に書いた

誓約を破ると神罰を受けると信じられた。

722630

たとえば武将が他の武将の

傘下に入る時など

熊野牛王符に

誓約などを書き、

裏切らないことを誓う

というような使われ方もしたようだ。

このようにして熊野権現は日本全国に勧請され、各地に

熊野神社が建てられるようになる。

熊野神を祀る神社は日本全国に約三千社にのぼる。

中でも沖縄では、神社の殆どが熊野権現を祀っている。

江戸時代後期になるとピークは過ぎたものの盛んであった

熊野信仰も紀州藩による神仏分離政策で布教をしてきた聖や

山伏、熊野比丘尼の活動を規制したため衰退し明治維新後

になると神仏分離令(くっつけたりはなしたり、忙しいことです)

により熊野古道周辺の神社は激減、熊野詣の風習もほとんど

なくなってしまう。

しかし熊野古道は生活道路として使用され続け、もちろん

廃道になってしまったところもあるが、最近では

世界遺産に登録され、整備されて、訪れる人もかなり

増えているようです。

きっとトレイルランナーもいっぱい走っているんでしょう。

またこのマラソンのスタート地点の上富田町のお隣に

田辺市がある。JRの駅は紀伊田辺。

どんなに歴史にうとい人でも名前くらいは知っている武蔵坊弁慶。

ここ田辺は弁慶の生誕の地といわれている。

しかしこの弁慶、名前が有名なわりに実際の歴史上は謎だらけ

の人物で、一時は実在すら否定されそうになったほど史書には

出てこない。「吾妻鏡」で義経が都落ちするところで、一行の

中に名前が見える程度。

弁慶が大活躍するのは義経記などの史実という観点からいえば

あやしげな書物だけなのです。

義経記に出てくる弁慶の生い立ちを紹介すると、

まず弁慶の母親の妊娠期間は18ヶ月、生まれた時は

2~3歳児の大きさで、奥歯まではえそろい、髪の毛は

肩まであったそうな。幼名は鬼若、これなんぞ牛若丸に

会うために作った名前としか思えませんね。

そして父親は熊野の別当弁しょうということになっているが

熊野の別当といえば熊野の修験者の最高権力者、

その息子ということになれば、その名前が出てくるはずなのに

別当の代々記にも弁慶の名前はありません。

また名前の由来である武蔵坊というのは比叡山の西塔には

ありません。

このように義経記というのは歴史書というよりも、創作小説

と考えた方が良いようです。

京の五条の橋の上の出会いから、東北の平泉、源平合戦、

悲劇のヒーロー義経に最後まで付き従った忠実無比な豪傑。

最後は義経を守って敵の前に立ちはだかり、全身ハリネズミ

のように矢を受けながらも倒れず立ったまま絶命する。

日本人が大好きな話には仕上がっています。

坂本竜馬と並び日本史上の最大の人気者の一人である

ことはたしかですね。

なんてことを考えながら今年の口熊野マラソンを走ろう。

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