歴史

不滅の法灯

ブログ上では前後するが、縦走往復の前日、京都の比叡山

延暦寺へ行って来た。

日本の仏教の大本山にもかかわらず、神社仏閣めぐり好きにも

かかわらず今まで行ったことがなかった。

以前に一度マラニックでそばをかすめて走ったことがある程度。

今回はランなしで訪れてみた。

比叡山延暦寺。

伝教大師最澄によって開かれた平安仏教の本山。

最澄といえば弘法大師空海を連想するが、この二人、唐への

留学は同じ船で出かけている。

ただその地位は全然違い、最澄はエリートコースを歩んできた

超有名人で桓武天皇のブレーンにもなっているほどのお方、

かたや空海は自費で旅費を捻出して参加の貧乏学生。

空海さん自身もこの留学について自ら”虚しく往きて実ちて帰る”

と表現している。

つまり身も心もボロボロで行って、バリバリで帰ってきたよ

ということ。

往路はよほどみすぼらしかったのかもしれないね。

しかし唐において密教の第七祖恵果和尚に師事し、

師が亡くなった時には全弟子を代表するような地位にまで

なっていたそうです。

つまり密教の本流を学び、数々の経典なども手に入れ、

2年後に帰国する。

一方の最澄さん、エリートさんらしく多方面にわたり

お勉強している。

天台教学、大乗菩薩戒、禅、そして密教も・・・。

彼の場合は1年後に帰国していたのだが、空海が帰ってくると

どうやら密教については空海の方が上手だということに気づく。

しかしそこはまじめな最澄さん、エリートの見栄をはる事もなく、

密教においては空海に対し師に対するがごとく接し、

経典の貸出しも受けて研究に取り組む。

しかし空海が貸出しを断ったり、最澄の弟子が空海へ

くら替えしたりして、徐々に対立しだす。

この頃密教による加持祈祷が平安貴族の間ではやっていて

空海の密教は京の東寺を道場としていたので東密、

最澄側は天台ということで台密と呼ばれて競い合う。

いずれにしても新興宗教だった奈良仏教が平安仏教として日本に

しっかり根付きだす頃の熱い争いです。

そして空海さんは真言宗、最澄さんの弟子円仁、円珍により

日本天台宗の基礎が築かれ、この延暦寺で修行した法然、栄西、

道元、親鸞、日蓮などがそれぞれに宗派をたて、仏教は

発展していく。

Photo 最澄さんの教えの根本

「個々が一隅を照らす人になる」

つまり一人一人がたとえ

わずかでも精一杯輝ければ

周りはどんどんよくなっていく

という教えです。

                      

                    

延暦寺には開かれて以来、えんえんと守り継がれてきた

”不滅の法灯”がある。

Photo_2それは 総本堂

国宝根本中堂の

本尊薬師如来像

の前で光り輝いている。

              

正確には織田信長の焼き討ちに遭っていったん途切れたが、

他の寺に分灯されていたのを再び戻して復活したようです。

浄土真宗の本願寺も信長と戦っているし、延暦寺も

浅井、朝倉に肩入れして信長を随分苦しめていた。

確かにこの頃は宗教が武力を持ち、時の権力者に対抗する

図式は時々見受けられますが、延暦寺にも生臭坊主も

けっこういたようですし、信長さんもついに堪忍袋の緒が

切れたんでしょう。

Photo_4

歴史の波を受け続けた

延暦寺にはさまざまな史跡が

一杯だ。

これは大塔宮護良親王の碑。

建武の新政の後醍醐天皇の

第三皇子で延暦寺の最高の

地位である天台座主にまで

登った人、これも延暦寺の武力を鎌倉幕府を倒すために

利用しようとした後醍醐天皇の遠謀であったといわれ

親王もそれに応えて僧侶としての修行そっちのけで、武芸の

鍛錬をしていたような天性勇武の質だったらしい。

しかし結局足利尊氏の弟、足利直義に暗殺されてしまう。

いつまでも興味は尽きませんがそろそろ帰ろうとロープウェイ

方面に向かっていると、なんか見覚えのある景色。

Photo_5

以前に土砂降りの中

マラニックで通った道に出た。

                 

                  

                   

少し開けた広場から北側に広がる山々がよく見える。

天気がよく、空気も澄んでいてかなり遠くまで見通せる。

Photo_6

比良山らしい。

                 

                    

        

Photo_3  

これも焼き討ちの時に

殺された人の供養塔かな。

女性や子供たちまで

やられたそうだからね。

Photo_7

そのすぐそばには

こんなきれいなトレイルが・・・。

以前は土砂降りで全然

わからなかったけれど

おもわず走っていきたくなるような道です。

ずっと歩いていると、走りたくなってきた。

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菜の花忌

菜の花忌

少し過ぎてしまいましたが、2月12日は菜の花忌でした。

なんのこっちゃ・・・。

実は、作家 司馬遼太郎の命日です。

歴史小説をいろいろ読みあさってきたけれども、家にある

小説の中で一番多いのは、氏の作品である。

もちろん氏の作品の多さもあるが、たくさん歴史小説家と

いわれる人がいるなかで、圧倒的にファンだったことの

結果だと思う。

一番初めに読んだのが何かは忘れてしまったけれど、たぶん

”国盗り物語”だったような気がしますが、彼がかく歴史は

いつのまにか自分の歴史観の大きな部分を占めてしまっている。

歴史学者や歴史研究家の方たちからは司馬史観といわれて

独自の歴史観だといわれていますが、私にとっては

まず司馬史観ありき、あとからそれが氏独特の考え方である

ことを知る、そういう順番でした。

その史観を作り上げたのは膨大な量の資料や文書の調査、

そして実際に現地へ行っての聞き込み(刑事じゃない?)に

よるもののようですね。

また聞くところによると彼は速読の名人だったそうです。

人と対談をしながら一冊の文庫本を読んでしまったとか、

たぶん字を見ながらの要点読みだとは思うが、

すごい速さだったようです。

たしかに資料を調べて、自分なりの流れを作り、

小説にするわけですから、氏の作品の多さから見ても

のんびり読んでいるわけにはいきませんよね。

そして現地調査、書こうとする作品の主要な土地へ実際に

赴き、土地柄、その土地の雰囲気まで調べ上げる。

それは”街道を行く”という紀行文になっているのだが、

小説を読んだ上で、この旅の様子を読むと、また

違った面白さがあって、これにも結構はまりました。

その時その人物が何を考えてどんな行動をとったかを、

今その土地で生きている人たちから何かヒントを

得られないか、そんな旅をしている。

”街道を行く”こと自体が司馬遼太郎のライフワークで

あるかと思うほど旅もお好きだったようですね。

そんな中から生まれた司馬作品。

初めて読み出した時から、毎作品が面白くて面白くて、

読みあさっていましたが、ある程度読んでいった時に、

一番印象に残っていた作品はというと、土佐の戦国大名

長宗我部元親を描いた”夏草の賦”。

司馬氏にとってはたんたんと生み出していった作品の

一つかもしれないけれど、なぜか頭に残った作品でした。

土佐から勢力を広げだし、四国全土を手にしようとした矢先、

信長、秀吉という大きな壁に阻まれ、泣く泣く膝を屈する。

他の三国を手ばなし、また土佐一国に押し込められてしまう。

しかし、それだけではすまず、宮仕えのつらいところ、

秀吉の九州島津攻めの時、あほな上司のせいで、

有能で将来を嘱望されていた最愛の長男、信親を死なせてしまう。

がっくりきた元親は四男盛親に家督を譲り、一気に覇気を

失ってしまう。

この長宗我部信親、享年22歳だった言われるが、

非のうちどころのない青年だったようで、身の丈六尺一寸、

当時男でも160cmほどが普通の時代に185cmは

巨人に見えたかもしれません。

色白柔和にして、勇猛果敢、戦上手で家臣、領民にも

人気絶大。

九州島津氏との戸次川の戦いにおいて、豊臣氏の

軍監・仙石秀久の無謀な進撃命令のため、土佐勢

の主力二千名と共に敵中に孤立してしまう。

この時仙石秀久くんはさっさと逃亡していたそうですが。

何万という島津勢とたった二千人の土佐勢、戦いの結果は

決まっていますが、この時、信親と土佐の重臣たち、それに

剽悍で知られた一領具足と呼ばれる土佐の地侍たちは、

当時でも信じられないような戦いを行います。

重臣たちは全滅、全体の戦死率は7割を超えていました。

普通、軍用語で全滅というのは人が全部死ぬことではなくて

軍としての機能が果たせないことを指します。

だから戦死率で言えばひどい戦いでも3割。

つまりある程度やられれば逃げ出してしまうというのが普通。

だから7割の戦死率というのは誰も逃げず、誰も降参せず

徹底的に戦った証であり、誰よりも相手の島津側が驚き、

元来、勇猛であることに非常に重きを置く家風であることや

他の豊臣軍がさっさと逃げ出してしまった事もあり、

信親の遺骸を丁重に扱って返還し、土佐勢全体に

最大限の敬意を払ったようです。

そんな息子を失った元親の失望は察してあまりあります。

なんにもする気がなくなったとでも言いましょうか。

司馬遼太郎もそんな元親の身になって作品を

書いていたのかもしれません。

私にとっては妙に印象的な一冊でした。

もうひとつ、”坂の上の雲”。

今年から、スペシャル大河ドラマという位置づけで2,3年かけて

完結されるテレビドラマ化されるようです。

司馬遼太郎自身、戦時中は大陸で戦車に乗っていた

こともあって、日本人は何でこんな馬鹿な戦争を

おこしてしまったのかという思いを持ったようで、そのことが

日本人には過去にはもっと素晴らしい人間がいたはずだと

考え、歴史小説を書き始めたという話もあります。

あの戦争の是非もあるし、現在の日本を見ても首をかしげるような

政治家が多い中で、未曾有の国難に際し政治家も国民もひとつに

なってそれに対抗し何とかしのぎきった明治の日本に対し

ある種の憧憬を感じていたのかもしれませんね。

私もこれをはじめて読んだ時に、太平洋戦争を描いた小説や

戦記を読んだ時と比べて国や軍の非合理性を理由にした

損害、犠牲の話が少ないことが読んでいて心地よかった。

ただひとつ日露戦争の中で消耗戦となった旅順攻略戦において

これを指揮した乃木希典をこきおろしてしまっています。

司馬遼太郎にとってこのときの乃木は昭和の日本につながる

精神主義のかたまりのように見えたのかもしれませんね。

ただ明治維新を経て藩の領民でしかなかった民というものが

はじめて日本国民という意識を持ち出した明治の日本は、

いろんな意味で活力にあふれていたんだろう。

愛媛にいた普通の兄弟が兄は世界最強と言われたロシアの

コサック騎兵に対し、矮小な日本騎兵を指揮して少なくとも

負けなかった、そして弟はロシアのバルチック艦隊との決戦において

その作戦を立案し圧倒的な勝利を演出した、またその友人は

俳聖、松尾芭蕉以来の俳人として名を成す。

この三人を中心に話は進んでいきますが、たしかにそこには

かっこいい日本がある。

結局、司馬遼太郎は日本人を大好きでいたかった、そのために

かっこいい主人公を作り続けたのかなとも思う。

彼の作品を読んでて思うのはその主人公の一番のファンは

彼自身であるということ、”龍馬が行く”の中の龍馬を

司馬遼太郎は好きで好きでたまらなかったんだろうね。

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紀州口熊野と田辺

今週末は紀州口熊野マラソン、和歌山県は上富田町、大塔町、

中辺路町で開かれる大会で、ここ4~5年は毎年参加している。

地域が一体になって手作りで大会を盛り上げているので

雰囲気がよく、あったかい感じがして気に入っている。

今年も嫁ともどもエントリー、楽ランからもT姐さん、Kばやん、

Kみちゃん、CHエイスさんも出場予定だ。

今回は走る前に歴史の予習をしていきましょう。

さてさて、紀州口熊野とは何ぞや?

紀州はもちろん紀伊の国、口熊野とは熊野への道

熊野古道の入口という意味らしい。

熊野周辺は日本書紀にも登場する自然崇拝の地である。

日本書紀、神代記に伊邪那美命が死んだ時、熊野の有馬村と

言うところに葬られたという記述があるそうな。

古来、熊野は山岳信仰から修験道の修行の地とされた。

その中から、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社が

興ってくる。

その祭神は、それぞれ家都美御子神(けつみみこのかみ)、

牟須美神(むずびのかみ)速玉神(はやたまのかみ)である。

やがてこの三社それぞれの神が、三社共通の祭神になっていく。

また神仏習合により、家都美御子神は阿弥陀如来、

牟須美神は千手観音、速玉神は薬師如来とされ、熊野三山と

呼ばれ、仏教的要素が強くなっていく。

また熊野三社で祀る神の総称を熊野神、熊野権現などとも言う。

権現とは仏や菩薩が人々を救う為に仮に神の姿で現れること。

いったい神さんなの、仏さんなの、どっちやねん。

日本人ってほんとに面白いね、勝手に解釈作って、何でもOKというか、

長所でもあるんだけどね。

外国の敬虔な宗教家から見ると理解できないらしい。

さて熊野参詣は、907年、宇多法皇(誰かの名前に似てるぞ)

に始まり、頻繁に行われるようになったのは1090年からの

白河上皇の9回の行幸から。

この後京都の公家の間で熊野詣が流行りだす。

後白河上皇にいたっては33回も行幸している。

これに伴い、熊野街道が発展し、街道沿いに九十九王子と

呼ばれる熊野権現の御子神が祀られた。

この九十九王子についてはよくはわかっていないようだ。

熊野までの参詣者の庇護を祈願したのではないか

というのが一般的らしい。

熊野三山遥拝を行ったのではないかと言われたが

史料上にはその記録はなく、また参詣の時の宿だとか、

物品の補給を行ったとかもいわれるが、帰路にはほとんど

顧みられていないところからこの説もあたらないといわれている。

72210

                   

つまり中世の皇族、公家たちが

参詣するおり、先達を努めた

熊野の修験者たちが京都からの

道中、紀伊路、中辺路、大辺路で

住人の祀る雑多な神々である諸社を王子という名で呼び、

熊野権現の御子神と認定して参詣の道中の安全を願ったと

いうところか。この王子も鎌倉時代以降は衰退する。

さらに時代がくだると、伊勢参りと並び、熊野詣は広く

武士、庶民が行うようになった。

熊野と浄土信仰の繋がりが強くなると、念仏聖や比丘尼のように

民衆に熊野信仰を広める者もあらわれる。

次第に民衆も熊野に頻繁に参詣するようになり、「蟻の熊野詣」

と呼ばれ熱狂的に人々の心を熊野へと駆り立てた。

一時は熊野付近の旅籠に1日で800人もの宿泊が記録された

こともあったそうだ。現代の行楽地と比較してはいけません。

人が動くことが少なかったあの時代では驚異的な数字です。

また、各社で発行される熊野牛王符は護符としてのほかに、

起請文(誓約書)の料紙として使われ、この牛王符に書いた

誓約を破ると神罰を受けると信じられた。

722630

たとえば武将が他の武将の

傘下に入る時など

熊野牛王符に

誓約などを書き、

裏切らないことを誓う

というような使われ方もしたようだ。

このようにして熊野権現は日本全国に勧請され、各地に

熊野神社が建てられるようになる。

熊野神を祀る神社は日本全国に約三千社にのぼる。

中でも沖縄では、神社の殆どが熊野権現を祀っている。

江戸時代後期になるとピークは過ぎたものの盛んであった

熊野信仰も紀州藩による神仏分離政策で布教をしてきた聖や

山伏、熊野比丘尼の活動を規制したため衰退し明治維新後

になると神仏分離令(くっつけたりはなしたり、忙しいことです)

により熊野古道周辺の神社は激減、熊野詣の風習もほとんど

なくなってしまう。

しかし熊野古道は生活道路として使用され続け、もちろん

廃道になってしまったところもあるが、最近では

世界遺産に登録され、整備されて、訪れる人もかなり

増えているようです。

きっとトレイルランナーもいっぱい走っているんでしょう。

またこのマラソンのスタート地点の上富田町のお隣に

田辺市がある。JRの駅は紀伊田辺。

どんなに歴史にうとい人でも名前くらいは知っている武蔵坊弁慶。

ここ田辺は弁慶の生誕の地といわれている。

しかしこの弁慶、名前が有名なわりに実際の歴史上は謎だらけ

の人物で、一時は実在すら否定されそうになったほど史書には

出てこない。「吾妻鏡」で義経が都落ちするところで、一行の

中に名前が見える程度。

弁慶が大活躍するのは義経記などの史実という観点からいえば

あやしげな書物だけなのです。

義経記に出てくる弁慶の生い立ちを紹介すると、

まず弁慶の母親の妊娠期間は18ヶ月、生まれた時は

2~3歳児の大きさで、奥歯まではえそろい、髪の毛は

肩まであったそうな。幼名は鬼若、これなんぞ牛若丸に

会うために作った名前としか思えませんね。

そして父親は熊野の別当弁しょうということになっているが

熊野の別当といえば熊野の修験者の最高権力者、

その息子ということになれば、その名前が出てくるはずなのに

別当の代々記にも弁慶の名前はありません。

また名前の由来である武蔵坊というのは比叡山の西塔には

ありません。

このように義経記というのは歴史書というよりも、創作小説

と考えた方が良いようです。

京の五条の橋の上の出会いから、東北の平泉、源平合戦、

悲劇のヒーロー義経に最後まで付き従った忠実無比な豪傑。

最後は義経を守って敵の前に立ちはだかり、全身ハリネズミ

のように矢を受けながらも倒れず立ったまま絶命する。

日本人が大好きな話には仕上がっています。

坂本竜馬と並び日本史上の最大の人気者の一人である

ことはたしかですね。

なんてことを考えながら今年の口熊野マラソンを走ろう。

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浪速路こてこて観光&グルメマラニック歴史編

1月17日、阪神大震災の日。

あれからもう14年も経ってしまいましたね。

早朝、地震発生時刻の前からテレビは地震一色。

各地の追悼行事を伝えている。

あらためて、犠牲になられた方の冥福を祈りましょう。

さてこの日は楽ランEASTからの賓客を歓迎するマラニックが

行われた。1日中走り回って大阪を堪能しきってもらおうという

題して、浪速路こてこて観光&グルメマラニック。

グルメについては参加メンバーが各ブログでいっぱい

報告があると思うのでここはあえて歴史に注目しながら

追っかけてみることにする。

スタートは大阪のランナーたちの聖地、大阪城公園。

ここから本丸へ入る。

太閤豊臣秀吉が築いた、名城大阪城。

Photo

もちろん当時のままではなく、徳川時代に一度、建て替えられたが

その後落雷で焼失、その後はしばらく天守閣のないお城であった。

昭和になって市民の募金によって再建される。

太平洋戦争中の空襲でかなりの櫓、門などに被害が出たが

天守閣は被害を免れた。

その後も何度か改修を行って現在に至っている。

歴史の表舞台をかざったお城だけに逸話も多い。

淀君、秀頼の物語、大阪冬、夏の陣などあまりにも有名ですが

秀吉以前は何だったかといえば、石山という小高い丘の上に

本願寺、つまり浄土真宗のお寺が建っていたのです。

そしてそこはもともと本願寺中興の祖、蓮如上人の隠居所、

さらにその前は生国魂神社があったとされ、その由来は

神武東征のおり難波の津に上陸した神武が国土の神である

生島神、足島神を祀ったのが始まりとされる。

さらにその前は古墳があったそうな・・・、もういいか。

さてマラニックは大阪城を出て大阪天満宮を訪れる。

Photo_2

ご存知天神さん、菅原道真を祀り、夏に行われる天神祭りは

日本三大祭の一つに数えられる。

                                                                           

                                                                              

菅原道真公はその頭のよさ、精神の美しさから天皇の信頼を

得たため、時の勢力者、藤原氏に危険視され、九州へ流される。

そして再び復帰することなく不遇のうちに没する。

彼がなくなったとたん、都では疫病がはやり、親王のうちで病死

するものが多く、また清涼殿に落雷があり死傷者が出たりする。

これが道真のたたりだとされ、京都に北野天満宮、九州に

太宰府天満宮、大阪天満に大阪天満宮が相次いで立てられ、

道真の怒りをおさめようとした。

天神信仰の始まりである。

しかし平安末期から鎌倉時代にかけては、そのたたりは

次第に忘れられ、彼の頭のよさから学問の神様ということに

なって今に続いている。

天神さんにお参りしたあとは、繁盛亭の前を通り

天神橋筋商店街を北上。行列の出来るコロッケ屋さん、

中村屋のコロッケをかじり、今度は昼間は静かな歓楽街、

北新地を爆走する。

四ツ橋筋を南下、再び行列を発見。堂島ロールに並ぶ行列だ。

しかし予約を入れていたので行列はスルーでロールケーキに

ありつく。中ノ島から市役所前を横切り中央公会堂から南下。

すぐ適塾が見えてくる。

正しくは適々斎塾、幕末の蘭学者、緒方洪庵が開いた塾である。

門人には慶応義塾の創始者"福沢諭吉"、日本陸軍の創始者

"大村益次郎"、日本赤十字の創始者"佐野常民"、安政の大獄で

斬首された越前の医師"橋本佐内"、他にも大鳥圭介や

変わったところでは手塚治虫のひいおじいちゃん"手塚良仙"など

がおり、幕末から明治にかけて日本の近代化に大きな役割を

果たしたそうそうたる人物たちを育てた私塾である。

またこの近くにこの適塾と同じような古い建物の幼稚園がある。

愛珠幼稚園といって創立明治13年だそう。

さらに少し南へ行くと湯木ビル、湯木美術館がある。

日本料理"吉兆"の創業者、湯木貞一氏の茶の湯のコレクションを

収蔵、展示している。

その中にはなんと重要文化財11点、重要美術品3点が

含まれている。

またここのすぐ向かいに小さな碑があったので見てみると

北組惣会所跡。

なんのこっちゃ、恥ずかしながら知らなかったので、

帰って調べてみると、江戸時代の大阪は大川をはさんで三つに

区分され、大阪三郷と呼んでいた。それが天満組、北組、南組で

それぞれに惣会所が設けられ、町人による自治機関として町の

行政を処理していたそうである。

こういう町の暮らしの歴史というのはなかなか知る機会が

ないのでいいお勉強でした。

Photo_3

マラニックはさらに続き、アメリカ村から道頓堀に入る。

ここも有名な話だが安井道頓らが私財をなげうって運河を掘り

1615年に完成、道頓堀と名付けられる。

これに沿って劇場ができはじめ、それに伴い飲食店も増え、

多種多様な建物があふれる地域となった。

ここで、老舗屋台"大たこ"のたこ焼きを賞味、ついでに麦酒

などをちびり。

次の名所は、藤島桓夫の"月の法善寺横丁"で有名な

(若い子は知らない?)法善寺横丁へ。

法善寺は浄土宗のお寺、本尊は阿弥陀如来。

この寺では千日念仏を行ったところから千日寺の別名もある。

このことから寺の前を千日前と呼ぶようになったとか。

さあ道具屋筋を抜け今度は大阪の台所"黒門市場"、

でっかいとらふぐがごろごろ、さすがにこれは買い食い

できません。ここはもと円明寺市場といい円明寺というお寺の

そばにあったのでこの名になり、さらにその山門が黒かった為、

黒門市場になったようだ。

黒門市場を出て向かうのは今宮戎神社。

1月10日にはとてつもない人でにぎわう"えべっさん"だ。

いつも行くのは西宮戎だから、ここを訪れてみるのは初めて。

すると小さい! 西宮よりはるかに大勢の人でごった返している

ニュースを良く見るので意外。

また各地にある戎神社の総社は西宮神社といわれている。

これを言うと大阪の人の中には怒る人もいるが、大きさから

見ればそのようでもある。 今宮という名前ももともと今西宮

から来ているといわれているし、まず西宮がさかえた

のかも知れないね。商業都市として大阪が大きくなる

にしたがって今宮が有名になってきたというところか。

ちなみに”商売繁盛で笹持って来い”というのは

西宮では一切言いません。

もうひとつ興味を持っているのが西宮神社の北の方には

廣田神社という大きな神社がある。阪神タイガースの

優勝祈願でも有名だが、西宮神社は廣田神社の南宮で

あるとも言われている。そして今宮神社の北にも

同じように廣田神社があるのです。

西宮神社と今宮神社の関係はかなり深い物が

あるのかもしれません。

ということでこてこてマラニックもいよいよ通天閣で

ゴールです。そのすぐ足元にあるラジウム温泉で湯浴み、

ジャンジャン横丁近くで打ち上げ。

もちろん最後は二度づけ禁止の串カツで締めでした。

T姐さんとBさん、

発案、企画、構成、引率、ほんとお疲れさんでした。

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すめらみことのたからもの

奈良の国立博物館で正倉院展が開かれている。

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初めて訪れてみた。

                                          

                                              

                                           

正倉院は有名な東大寺大仏殿のすぐ北西のそば、

高床式校倉造(あぜくらづくり)の倉庫、社会科で勉強しましたね。

ここには第45代の聖武天皇と光明皇后ゆかりの宝物を

はじめとして天平時代を中心とした美術工芸品が

多数納められている。

聖武天皇といえば東大寺大仏の建立を命じた天皇として

有名だが、この正倉院はこの東大寺の倉庫として建てられた。

もともと正倉とは税を納める倉という意味。

また大きなお寺で寺領から納められた品や、寺で使用する

什器などを収蔵する倉のことを正倉といって他のお寺にも

いくつかあったようだが、東大寺以外はなくなってしまったので

固有名詞化したようだ。

大仏建立を命じたように聖武天皇と光明皇后は仏教に帰依する

ところ大きく、聖武天皇がなくなった時に光明皇后が遺愛の品々を

東大寺に奉献したことが始まりらしい。

その後もたびたび日用品や献上品などを納めたようだ。

さてここに納められている宝物の数々、いったいどんな物なのか?

ざっとあげてみると、絵画、書籍、金工、漆器、木工品、刀剣、陶器、

ガラス工芸品、楽器、仮面など日本のものはもちろん、中国、西域、

遠くはペルシャなどからの輸入品も見られる。

このため奈良はシルクロードの東の終点とも言われる。

さすがに写真撮影は禁止なので写真はありませんが、

実物を見ていくと美しさもさることながらそれを作った

職人の技が見事。

また千何百年も経っているとはとても思えないつやの

木工品もあり、保存状態の良さをものがたっている。

奈良時代、西暦で言えば七百年代、古代と呼ばれる時代から

何年も経っていない時代にこういった工芸品が存在したことに

驚かされる。

と同時にこれらは税として納められたものもあるだろうし、

賄賂として献上された物もあるだろう。

役人や貴族たちがこういうものを作らすために、当時の

民衆たちからどれだけしぼりとったのだろうかなどということを

ついつい考えてしまった。

それだけ天皇の権力が強大だったということなのかな。

天皇(すめらみこと)の宝物でした。

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阿保親王塚

今月は走込月間ではあるが今週は少し距離を落とす週。

とはいえそろそろ山も恋しくなってきたのでロードと山行を

組み合わせてみた。

家から芦屋、西宮を抜け、宝塚まで舗装路を走る。(約15K)

宝塚から縦走路へ入り一軒茶屋から岡本へ山を下る。(約21K)

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山手幹線沿い、阿保親王塚古墳。                               

                                   

                                  

                                                                                                    

                                                                         

しかし、まだまだ暑いですね。風もあまり無く、宝塚へ行くまでに

かなり消耗してしまう。

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今日はここが入口。

                                  

                                                                         

 

                                     

山を登りだせば涼しくなるだろうと思いながら進むがいっこうに

気温は下がりません。昼近くなって逆に上がってくる感じ。

宝塚から一軒茶屋まで二時間くらいのつもりが二時間半近く

かかってしまった。足にもだいぶきているようだ。

茶屋で一服しながらハイドレにも補給。

登りなれた道を今日は下る。

さすがに気持ちよく下るというようには飛ばせない。

ひざは笑ってはいないがニヤニヤぐらいしているようだ。

何とか家まで到着。思ったより厳しかった。

ところでこれからはランニングコースの近くや道端にある神社、

仏閣、史跡その他、歴史をうかがい知る様なもの何でも見つけて

書いてみようかと思う。

今回は芦屋市翠ヶ丘にある阿保親王塚古墳。

この古墳は結構わかり難い所にあったのだが最近になって

開通しつつある山手幹線がすぐそばを通ったので、この道を

走っていると見えるようになった。

まずは読み方から、アホな親王のお墓ではありません。

あぼしんのうと読みます。誰やそれという方には、

阿保さんは知らなくても在原業平といえばご存知の方も多いはず。

六歌仙とか三十六歌仙といわれて有名な方で、古今和歌集には、

三十首が入集している、お歌の上手なおっさん。

「世の中に たえて櫻の なかりせば 春の心は のどけからまし」

また伊勢物語の主人公だとも言われている。

この在原業平のおやじが阿保親王。

もっというと阿保親王のじいさんが平安京へ遷都を行った

桓武天皇。朝廷の力が膨張していく時代ですね。

空海、最澄が活躍するのも、坂上田村麻呂が命ぜられて蝦夷を

北へ追い上げて行ったのもこの頃。

桓武の次が平城、その次が嵯峨。阿保さんの父上が平城天皇。

つまり桓武からいえば、直系の孫なのですが、この後の皇統が

嵯峨天皇の方へ行ってしまった為に、業平の世代には臣籍に降下

してしまったというわけ。

この平城と嵯峨の権力争いは激しいものがあった様で、結局、

嵯峨側が兵を動かし、平城が出家して決着する。

この時、平城の愛妾藤原薬子、その兄の藤原仲成らが処罰される。

このためこの政変は「薬子の変」と呼ばれている。

阿保親王もこの変に連座して左遷の憂き目に会うが嵯峨天皇が

宮廷内の権力を固めて行く中で、平城が亡くなった後許されて

入京を許される。

そしてかなり重要な地位を歴任していくが、桓武直系の孫、

平城の第一皇子という立場はかなり微妙な物があったようで、

彼の動向は、彼の有能さもあり常に注目の的であったらしい。

後、恒貞親王の皇太子問題で策謀を持ちかけられるが、

これに与せず密告する。このためこの策謀は潰える。

しかし、彼はこの承和の変の三ヵ月後に急死する事になる。

このあたりも何かきな臭いにおいを感じる。

なんといっても平安時代のこのての事件は列挙に暇が無いし、

暗く陰湿なものをいつも感じる。

皇統の争いは暗殺の歴史といっても過言ではない。

阿保親王もこれに翻弄され続けた一生だったに違いない。

死後に一品の品位を追贈されている。

ところでこの阿保親王塚古墳、長州の毛利氏は阿保親王から

出ているとのことで、江戸時代に修復工事を行ったりしている。

現存する燈籠も毛利氏が贈った4対のうちの3対で1対は

阪神大震災で壊れたとか。

また芦屋には親王塚町、業平町、業平橋などこの父子に

まつわる地名が数多くある。

彼らがこのあたりに住んでいたという確定はできないらしいが

当時このあたりが朝廷の直轄領であったことは確からしく、

屋敷を持っていた可能性は高いらしい。

ただ最後にこんなことを書くのもなんだが、

この阿保親王塚古墳は、建造された時代とかを検証すると

どうやら阿保親王の墓ではないようだ。

ここに限らず、宮内庁の定めているものと実際の調査に

基づくものとの食い違いは全国津々浦々にあるが、

そろそろ何とかしていくことはできないのでしょうかねぇ。

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今年のGWは・・・

今年のゴールデンウィークは、27日の六甲縦走にはじまり、

29日はホームバーベキュー、30日は奈良方面へゴルフ、

1日、2日は神戸にできたIKEAを偵察に行き、

購入してしまった机と棚の組立。

3日は、やりのこした仕事を片付けに会社へ行く。

そして4日、5日は、楽ランの春季合宿で京都は丹波自然

公園へ。

長距離のペース走、坂道ダッシュの必要なリレー、

公園内のクロスカントリーと多彩なメニューをこなし、夜は夜での

大宴会と充実の時間を過ごし、最終日6日は裏山へハイキング。

毎年GWはたいてい半分以上仕事でつぶれ、残りは地域の祭りで

終わってしまうのだが、今年はかなり中身が濃かったなぁ。

ということで、その祭りで曳かれるだんじりの話。

だんじりといえば何といっても岸和田ですが、大阪湾沿岸を

中心に、近畿地方に広く分布している。

ルーツはやはり京都の祇園祭で、各地でそれぞれ

特色のあるだんじり祭りが行われている。

合宿から帰ってくると、こんなやつがうろうろしている。

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これはわが町、田中のだんじり。

この辺りでは一番の巨大だんじりである。                                   

このだんじりは、現在では神戸型といわれているそうで

神戸の生田川から、西宮の夙川の間で使われている。

地域的に灘五郷と呼ばれるところと一致しているのは、

スポンサーとして酒屋がからんでいたのかもしれないね。

現在は中でも本住吉神社、保久良神社を総社とする

住吉、本山のだんじりが盛んである。

何十台もが勢ぞろいするだんじりパレードがあったり、

他の地域で行われるイベントに出張したりすることもある。

神さんは怒らないのかなとも思うけど・・・。

自分自身の小さい頃はずいぶん燃えたし、

子供ができてからは、いっしょになって追いかけまわしたり、

楽しい思いをさせていただいた。

他の地域の祭りを観光で見に行くのも良いけれど、

わが町にこういうお祭りがあるというのは幸せなことだと

しみじみ思う今日この頃である。

この日は最終日で午後8時頃から駅前の広場で練りまわし

するので見に行こうと思っていたが、食事の後、合宿の

疲れがどっと出て、倒れるように寝てしまった。残念。

大学生になる2番目の娘は小さい頃からだんじりが大好きで

いまだに10時ごろに神社に戻り車庫の扉が閉まるまで

見届けてから帰ってくる。

今年は若中衆でもめごとがあったそうだ。

まあ、祭りにけんかはつきものか。

これはあくる日に聞いたことですが・・・。

さて最終日は山へ。

縦走から1週間以上たっているので、むずむず。

さすがに少し疲れ気味で走るのはやめ。

十文字山の巻き道から水平道を通ると、

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新緑に太陽の光が当たり、えもいわれぬ美しさ。

そして最高峰への銀座通りへ出る。

しかしすぐ道をそれ、今日は荒地山へ向かう。

ここはその名の通りばかでかい岩がごろごろしている。

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もちろん、岩ばかりではなく、雰囲気の良い森の風景も続く。

あぁ、気持ちいい。

Mori

                                                                         

                                                                           

                                                                           

日本の登山発祥の地といわれるロックガーデンはすぐそば。

岩の多い山である。

Aretiyama

                                                                           

                                                                           

                                                                         

荒地山からの下りにはこれも有名な

岩梯子と呼ばれる岩の壁がある。難所というか一つ間違えれば

何十メートルも転落しそうな岩の壁をそろそろ降りる。

さらに下りていくと芦屋の北、城山と呼ばれている鷹尾城跡に出る。

城跡とはいえ、お城であることをうかがい知るものは何もない。

この辺りでは鷹尾城の戦い、芦屋河原の戦いと呼ばれる著名な

合戦があった。室町末期から戦国時代にかけて、細川氏、赤松氏

瓦林氏による勢力争いの中心であったようだ。

そんなところを通り抜けるとすぐに阪急芦屋川。

気持ちのよい散歩でした。

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適々斎塾

今日は何の日というページをみていると、明後日3月23日は

幕末の蘭学者、緒方洪庵が大阪に適塾を開いた日。

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適塾は正式には適々斎塾と言い、洪庵の号、”適々斎華陰”から

名づけられた。

門人には、

福沢諭吉、言わずと知れた、慶応義塾の創始者。

大村益次郎、明治政府の初代兵部省兵部大輔、日本陸軍の創始者

で大河ドラマ”花神”の主人公。長州時代の名は村田蔵六。

佐野常民、日本赤十字の創始者。

橋本佐内、越前藩の医師,開国思想を持ち、安政の大獄で斬首。

大鳥圭介、戊辰戦争では函館の五稜郭に立てこもり、最後まで

抵抗、投獄されるが後に明治政府に出仕、清国、朝鮮公使になる。

変わったところでは、手塚治虫の曽祖父手塚良仙も適塾の出身

である。

幕末から明治にかけての日本の近代化に大きな役割を果たした

このそうそうたる人物たちを育てた私塾である。

緒方洪庵はもともと岡山足守藩の出身、大阪、江戸、長崎で学び

1838年、大阪に戻って医業を開業するとともに、この日適塾を

開いた。 ここで学んだ塾生は千人にも達すると言われ、偉大な

教育者であったことはその門人たちが証明している。

緒方洪庵は、種痘を広めたことでも知られており、大阪はもちろん、

出身地の足守藩にも招かれ、たくさんの子供たちに種痘を

施している。また幕府の再三の招きにより江戸で、奥医師にまで

なっている。このころ手塚治虫のひいおじいちゃん良仙も江戸で

歩兵屯所付医師(軍医みたいなものか?)になっている。

この適塾は閉塾する際、大半の教師、塾生が新設の大阪医学校へ

移ることになる。この大阪医学校は後に大阪帝国大学へと発展

していくので、いまの大阪大学の源流は適塾にあると言っても

いいようだ。

ちなみに現在、適塾は史跡公園になって、大阪北浜にその姿を

しのぶことが出来る。

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塾の内部も見学できるようになっていて、

塾生が学問についての口論が激するあまり、刀を振り回して

出来た柱の疵なども残っている。

教える方も教わる方も今の学校との差を感じずには

おられませんね。

激動の時代に、すばらしい先生と熱い生徒たちがいた学校を

見てみるのもいいかも。

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桜井の別れ

仕事で訪れた大阪府三島郡島本町。

大阪府の郡も少なくなってきたがそのうちのひとつ三島郡、

高槻と山崎の間になる。阪急の駅でいえば"水無瀬"。

ここには"太平記"ゆかりの史跡がある。

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史跡内はたくさんの

楠が生い茂っている。

九州から攻め上がってきた足利尊氏を迎え撃つために、湊川へ

向かう楠木正成が後事を託す嫡子 正行(まさつら)と別れを

惜しんだ西国街道の”桜井の駅”跡である。

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楠木正成。

この人を知らない人はいないと思うが、もともとは河内の土豪。

ひょんな事から後醍醐天皇と出会い、ぽんと肩をたたかれた

ために意気に感じ、後醍醐のために奮戦することになってしまう。

こんなことがなければただの大阪(当時この地名はないが)の

河内のおっさんとして、歴史の中に埋もれていたであろうのに。

時は1334年、この楠木正成、足利高氏(尊氏)、新田義貞など

の力を借り、後醍醐は建武の親政を実現させる。

ところが始まってみると、天皇親政とはいえ、やってることは

公家の好き勝手。世の武士たちの不満を結集させて鎌倉幕府を

倒したのに、功績のあった武士たちに報いるところがあまりにも

少なすぎた。また新たな不満が世にはびこりだす。

これに乗っかったのが足利尊氏、反逆の旗を揚げる。

しかし、いったんは楠木正成、新田義貞、奥州の北畠親房、顕家

父子などの奮戦で尊氏は九州まで追い落とされる。

しかし全国の武士たちの期待を一身に背負った尊氏はすぐに

勢いを盛り返し、大軍を率いて京へ向かって攻め寄せてくる。

これに対し楠木正成が後醍醐に示した戦略は、京は攻めるに易く、

守るに難い土地である、ここはいったん京をあけわたし、

比叡山に登り、改めて京を攻めるというもの。

野武士、土豪などが得意とするゲリラ戦術である。

多勢に無勢を考えればこのとき取り得る最善の策であっただろう。

しかし、この時公家たちが一斉に声をあげる。

「一戦もせずに逃げ出すとはどういうことだ」

「天皇の権威にかかわる」

「尊氏がそんなに怖いか」

「臆病者」

そんな声に押しきられるように楠木正成は、尊氏迎撃の命を

受けて後醍醐天皇の御前を退出する。

「お上はこの正成に死ねと言われるようだ」

討死を覚悟した正成は京から西国街道を西へ向かう。

そしてここ桜井の宿で数え年11歳の嫡子正行にあとを託す。

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「わいはあの尊氏をしばき倒しに行くけど、多分やられてまうから

おまえは家帰って力をつけてあの天皇はんを助けたれ」

同行をせがむ正行にこう諭した後、兵庫へ向かいご存知

”湊川の合戦”で弟正季と共に戦死する。

この戦死直前に正季と語った言葉、

「七回生まれ変わって朝敵をやっつけたる、

河内のおっさんをなめたらあかんどー」

これが”7生報国”という言葉を生み、太平洋戦争でも

日本軍の合言葉になってしまうという悲しい歴史につながる。

死をも顧みず”忠”を貫いた正成には感動しますが、

これを戦意高揚の道具に使ってはいけませんよね。

ちなみにこの正行も正成と同じように南朝への”忠”を貫き

”四条畷の合戦”で戦死するし、その後も、楠木家の一族郎党は

すべて南朝方として戦いつづけていく。

太平記の名場面でした。

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野洲弥生の森歴史公園

去年の今ごろ、缶詰になっていた滋賀県野洲の現場、

いまだに、あれやこれやで度々引っ張られている。

この日もまた来るはめになったが、少し時間が出来たので、

以前より気になっていた銅鐸博物館を訪れる。

しかし、・・・・・・休館日。そらないでぇ。何たる間の悪さ。

がっくりしながら周りを見渡すと、この博物館はちょっとした

公園の中に立っており、弥生の森歴史公園というらしい。

よく見れば竪穴式住居や高床式倉庫が並んでいる。

まるっきり無駄足でもなかったワイとホクホク顔で見学。

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こういう史跡公園は以前に

長崎出張の帰りに行った、

吉野ケ里遺跡公園以来だ。

                 

                                   

さすがに吉野ヶ里の規模には遠く及ばないが、

Photo これは高床式倉庫の

ねずみ返し。

こんな板一枚でねずみが

上がれない。

知恵ですねぇ。

Photo_3 葦ぶき。

白川郷などで現代にまで

つながる日本の屋根の

ルーツ。

                                   

公園内には古代米の赤米の田んぼもある。

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毎年収穫しているらしいし

季節に合わせて来れば、

田植えや稲刈りの体験学習も

出来るそうな。

少しお勉強しました。

滋賀県琵琶湖のまわりは、はやくから開けていたため、石器、

縄文、弥生はもちろんのこと、古墳時代から奈良時代まで、

遺跡の宝庫。それだけ暮らしやすい土地だったんだろうね。

この公園内にも古墳時代の宮山2号墳と呼ばれる古墳がある。

Photo_4  Photo_7                                    

                                     

                                     

                                  

このあたりいったいの古墳群を総称して大岩山古墳群といわれ、

全部で17基発見され、内8基が国の史跡に指定されている。

年代的には3世紀から6世紀、一番新しい宮山2号墳が、

6世紀後半のものとされている。つまり弥生時代の終わりから

大化の改新の前まで300年にわたって場所を移動しながら

古墳が作られつづけたようだ。

この大岩山古墳群の主は当時このあたりの地方豪族であり

国造(くにのみやつこ)であった近江之安値(おうみのやすの

あたい)氏であるらしい。ということは”やす”という地名もかなり

古い地名なんだ。”なら”などもそうだが、2文字の地名は古い

地名が多い、単語の量も少なくて文字二つの組合せで

事足りていたということかな。

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これは銅鐸博物館前にある

大きな銅鐸のオブジェ。

                 

                 

ちなみに出雲地方で40個の銅鐸が発見されるまでは

このあたりで発見された24個が最多だったらしい。

また高さ134.7センチの日本最大の銅鐸はここの出土。

あぁ、銅鐸博物館みたかったなぁ。

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天璋院篤姫

NHKの大河ドラマで”天璋院篤姫”が始まっている。

幕末最高の名君といわれた薩摩の島津斉彬の養女になり、少し

おつむの足りなかったといわれている十三代将軍 徳川家定に

輿入れし、徳川幕府が瓦解していく中で、大奥最後の責任者

として、江戸城引渡しが終わるまで城に残り、最終処理を全うした

女傑の生涯を描く。

最近というか、かなり前から大河ドラマは時代背景こそ戦国とか

幕末ではあるけれど、中身はというと歴史を大幅にねじ曲げた

ホームドラマであったり、ジャニーズ系の俳優を多数起用して、

若いもん受けを狙ったり、涙ぐましい努力を続けている。

前作の”風林火山”は久しぶりに原点に戻った骨太の”大河”

でした。こういうのは昔からのファンは喜ぶが視聴率としては

もうひとつの場合が多い。そのへんが作るほうとしては非常に

むずかしいところ。

さて今回の”天璋院篤姫”、どういった展開を見せるのか。

NHKによる企画意図としては、人生の節目節目で、勇気を

もって責任ある行動をとり、最後には江戸城の無血開城へ

導いた篤姫の人生をたどりながら、幕府の中枢にいた女性の

視点から見た初めての大河ドラマということだが・・・。

原作は宮尾登美子、”義経”についで二度目の大河ドラマ。

この原作は、ずいぶん前に一度読んでいるが、あんまり印象は

ない。 こういう人もいたのかという程度。

しかし歴史に埋もれていた篤姫に光を当てた宮尾登美子の

評価は高いらしい。

脚本は田渕久美子、大河ドラマもこの頃女性の脚本によるもの

が多い。でも彼女の作品は、現代ドラマばかりのようだが、どう

料理してくれるのか?

主演は若手実力派女優 宮﨑あおい、好きな女優の一人、

49歳の天璋院まで演じきれるか?これは楽しみ。

島津斉彬に高橋英樹、イメージどおり。

平幹二郎、長門裕之、江守徹、草刈正雄、北大路欣也、真野響子

松坂慶子、樋口可南子、余貴美子、長塚京三、的場浩司

そうそうたるメンバー、このへんはさすが大河ドラマ。

面白いところでは孝明天皇に雅楽の東儀秀樹、

西郷隆盛に小澤征悦、坂本龍馬には、なんと玉木宏、そうです、

”のだめカンタービレ”の千秋先輩なのです。

すいません、ちょっとミーハーしました。

まだ第三回が終わったところであるが、どう盛り上がるか、

じっくり見ていこう。

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えべっさん

1月10日は、十日えびす大祭。西宮神社へ行ってきた。

まずは起源から。

西宮神社は平安時代、少し北にある廣田神社の摂社と

されていたようだ。

室町時代になり七福神信仰が盛んになるにつれ、

えびす様が福の神の代表になり、西宮神社はその信仰の

本拠地として発展していった。

その一端を担ったのが、神人として境内の北隣に

住んでいた傀儡師たち、人形を操りながらえびす様の

御神徳を全国に広めていった。

大阪の文楽や淡路島の人形浄瑠璃もそのひとつといわれている。

西宮神社の赤門前の道を少し北へ上がるとその石碑もある。

興味ある人は、一度どうぞ。

江戸時代になると、経済の発達につれ、その中心である大阪の

今宮戎が商売繁盛の神さんとして、にぎわっていったようであるが、

今宮という地名も、今西宮から変化して出来た地名という

説もあるらしい。今宮戎神社の少し北にも廣田神社があり、

この辺の西宮と今宮の関係はなかなか面白い。

一度詳しく調べてみよう。

ちなみに、今宮で連呼される"商売繁盛で笹持って来い"は、

西宮では、一切言わない。

これも大阪人気質と西宮人気質の差であると言われている。

ということで、西宮神社に来たものの、赤門前の道は

ずいぶん手前からこの状態。

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明日の天気予報が雨なので、この日に集中したようだ。

それか、あまりの世の中のひどさに福を求める人が

増えたのか。   

                                   

ぜんぜん進みません。

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やっと赤門を通過、

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道路で並びだしてから一時間近くたっているのでは。

 うちは商売をしていたので子供のころから来ているが、

これだけの混雑は、はじめてかも。

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去年の福笹を返して、

                                   

Photo_5 やっと拝殿近く。

この辺からようやく流れだす。

                                   

Photo_6 奉納されたマグロ

こいつはこの後、

関係者の胃に納まるらしい。

いいトロがとれるんだろうなぁ。

うらやましい。

                                   

Photo_7 御掛鯛。

                                   

古くから尼崎や兵庫津(神戸)の海産物問屋から鯛を

二匹結んで神前に奉納していたのを、今回、再興したらしい。

えべっさんには釣竿と鯛だもんね。

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福娘、いやいや福笹。

                                   

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Photo_9

こんなのもありますねぇ。

結局一度も入ったことはありませんが。

                                   

とにもかくにも、えべっさん、

今年はたのんまっせ。

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龍馬の足跡

神戸ポートアイランドでの仕事の帰り、旧居留地あたりを歩く。

2号線沿いにこんなものが、

Photo

阪神高速が横倒しになった映像を

ご記憶の方は多いだろうが、

これは倒れはしなかったものの

表面のコンクリートが剥がれ落ちた

高速道路の支柱である。その他、

被災した道路の部品が二、三点

歩道の脇に保存されている。

あの時はこんなものが街じゅうにあふれていたなぁ・・・。

なんか大昔のような気がする。

ルミナリエも存続が危ぶまれているし、こんなふうに記憶は

歴史へと風化していくのか。

などと考えながら歩いていると、なんとBさんにばったり。

つい何時間か前まで、いっしょにべろべろになるまで

飲んでたのに、なんでこんな所で会うねんと大笑い。

けっこうばったり会うことが多いのは、前世の因縁

かなんかあるのかな。

さらにもう少し行くとメリケンパーク入口近くにみなと公園

というのがある。

Photo_2

ここは幕末に幕府軍艦奉行、

勝安房守(海舟)が、開設した

幕府海軍操練所の跡。

                                  

                                  

ここの塾頭として、船を教えていたのが、坂本龍馬。

後に幕府を倒す立役者になった龍馬が幕府の施設で活躍していた、

すごく龍馬らしいエピソード。

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公園内の碑

ここには、勝海舟、伊藤博文

陸奥宗光 などの名が見える。

                                   

                                   

陸奥宗光といえば、龍馬が新政府の顔ぶれについて

案を作り、西郷に見せる。西郷は一目見るなり、

怪訝そうな顔で龍馬の顔をうかがう。

西郷;「坂本サァ、おまんさぁの名が見えもはんが・・・」

坂本;「わしですか、わしは世界の海援隊でもやりますきに」

龍馬ファン垂涎の名場面。

この場面に同席していたのが、陸奥陽之助、後のかみそり

といわれた外務大臣陸奥宗光。

彼は生涯この時のことを語る時、幕末の大巨人 西郷隆盛も

龍馬の前では、新政府での地位に汲々とする一小人でしか

なかったといいつづけたそうな。

歴史のひとこまでした。

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長崎は今日はかすんでた

長崎出張。

しかし、日帰り。悲し・・・。

長崎へは、数年前、仕事の関係でしげしげと訪れていた。

現場はなかなかしんどかったが、なんといっても、幕末の歴史を

動かした坂本竜馬ゆかりの地ということで休みがあれば

亀山社中跡を訪れたり、暇があれば長崎港を眺めて

海援隊の船が通る姿を想像したりと幸せな出張だった。

しかし今回は長崎駅周辺だけ。Photo

長崎港から稲佐山を望む。

今日は少しかすんでる。

                                                                            

                                 

Photo_2

グラバー亭あたりかな。

 

 Photo_3

                                                     

高島行き高速船。以前の現場は高島にあり、この船で渡ってた。なつかしい。     

高島は炭鉱の島、現在は900人程度の人口だが明治から昭和まで

最盛期には何万人もの人口でにぎわった。

島には当時の生活の跡がまだ残されている。

英国の貿易商グラバーの別荘跡もある。

ここで雑学、キリンビールのマークの麒麟のひげは

なぜ長いか。キリンビールの前身”ジャパン・ブルワリー・カンパニー”

の設立者の一人であったトーマス・グラバーの蓄えていた

立派なひげに由来するらしい。   ちゃんちゃん。

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さすが長崎、いたるところにこんなものが。

 

                                                                   

Photo_5  

市電は今でも現役バリバリです。

 

                                                                    

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カステラの文明堂總本店、なかなかの貫禄です。

でもお土産に買うのはいつも松翁軒のカステラ。

しっとり感が違うかな。まぁ好みですが・・・。

 

                                                                       

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さあそろそろ帰らなくっちゃ。

お名残惜しいですが。

                                   

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プラットホームにはこんなものが。

これは長崎くんちのときに使われる曳物

”御朱印船”

ちなみに”くんち”は諏訪神社の大祭、九月九日のくにちが

なまったもの。

  Photo_9

特急”かもめ”これに乗って帰ります。

                                  

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旅のお供は・・・。

ちょっと寂しいかな。

はよ帰って寝よ。

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姫路

所用があり、母校へ。

姫路の書写にある姫路工業大学、現在は兵庫県立大学と名前も変わり総合大学になっ

ています。

20070915_10307016 機械工学科と応用化学科の建物

ここで6年過ごしました。(院ではないけど・・・?)

懐かしい。

姫路の町からお城を見る。

20070915_10336579

相変わらず美しいお城です。やっぱり優美さでは一番ですね。

大阪夏の陣で淀殿と秀頼はお城と運命をともにしましたが千姫は

後に本多忠刻に再嫁して本多家とともにこのお城に来ています。

千姫は秀頼とも忠刻とも仲睦まじく、穏和な優しい女性だったようです。

時代に翻弄された戦国の女性だったということかな。

しかし、世界遺産になると外人さんの観光客が増えるようですね。

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南海高野線堺東駅

堺東に来た。

例によって駅の地図を見ると、反正天皇陵がある。

第十六代仁徳天皇の次の次の天皇である。(皇統譜による)

さっそく行ってみた。が、やっぱり天皇陵は全然近づけない。

宮内庁さん、天皇陵ももっと学術的な調査を行って、その後、

史跡公園みたいにしてくれませんか。倭の五王として中国の歴史書との

くいちがいから色々な説のある反正天皇であるが、もし天皇陵の調査

みたいな事が行われれば、ある結論がでるかもしれないしね。

などと思いつつ、すぐそばにあった方違神社をのぞいてみた。

20070907_230024188 20070907_230042063

祭神はもともとは住吉大神、後に素盞嗚命、三筒男神及び

神功皇后を合祀、方違大依羅神と号す、とのこと。

大阪湾沿いの国々の神社はほとんどが住吉さんと神宮皇后の

いわれが多いね。

まったく話は変わりますが、秋の夜長、こんな本は

いかがでしょうか。

20070907_230105032

大正から昭和にかけて生きた偉大な登山家、加藤文太郎を

新田次郎が小説とした。

兵庫県の浜坂で生まれた文太郎は神戸の造船所で働きながら、

六甲山を、歩き回る。まだ道も整備されていない全山縦走に、

とんでもない逸話を残しながら、信州へそしてヒマラヤへと、

成長していく。

山岳小説としては著名な本ですが読んでない方は一度どうぞ。

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長岡京

長岡京。

桓武天皇が、平城京から平安京へ遷都する前に一時都を置いたところ。

恵解山古墳(国指定史跡、五世紀中ごろの巨大な前方後円墳)や弘法大師ゆかりの勝龍寺など見所は多いが時間も無いので駅近くの長岡天満宮へ寄る。

ここ長岡は、菅原道真公が在原業平らとともに詩歌管弦を楽しんだゆかり深いところ。

公が大宰府へ左遷された時、この地に立ち寄り名残を惜しみ、「わが魂長くこの地にとどまるべし」と言われた縁故によって公自作の木像を祀ったのがこの神社の創立だそうだ。

Dscn3217_2  清廉潔白、至誠一貫、この言葉のままに生きた公の前

 ではわが身の小ささを感じずにはいられない。

 要領よく生きることばかりを考えてはいないか。

Dscn3219_2

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御廟表塚古墳

なかもずへ行ったので近くにあった古墳を訪ねてみた。

20070804_93014172_2 西高野街道というのだそう。                                                                                                                                            

                              

                                 

                                 

    

御廟表塚古墳という説明。誰の墓とか、いわれについての説明は一切無し。

チョット残念。この辺りは古墳だらけだし、わからない古墳がいっぱいあるのかな。                             20070804_93033876

前方後円墳らしいが見かけは円墳にしか見えない。5世紀後半というから

古墳時代真っ只中。倭の五王の時代ぐらいかな。

20070804_93048110

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親鸞聖人が・・・

野洲出張のとき現場のそばにあったお寺、錦織寺。20070802_72234776_2 浄土真宗木辺派の本山20070802_72051698_2

真宗といえば西本願寺派、大谷派が有名だがそのほかに8派、全部で10派有るらしい。

ふと訪れたこのようなお寺が親鸞聖人ゆかりの名刹だとは・・。

旅先、出張先でこういうのを見つけると、何か得した気分。

仕事はつらかったけどこんなこともなけりゃね。

20070802_72337698_3

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初記事

記念すべき初記事。

誰が読んでくれるかわからないが、わが趣味 ランニング、キャンプ、たまに歴史、ブルーグラス、フォークソングのことなど書いていくつもり。

昨日、今日と仕事で野洲へ行く。

帰りに時間作って草津にて寄道。

草津は以前に野洲に泊り込みで出張していた時、一度走って訪れた町。

草津は東海道と中山道の分岐点になる為非常に栄えた宿場である。

旧東海道草津宿であった付近は今でもその名残を感じられる町並みを残している。

Dscn2895_3

これはその分かれ道の道標。

そしてこのすぐそばに本陣がある。

Dscn2898_3 旧草津宿には本陣田中七佐衛門、本陣田中九蔵の二軒の本陣と二軒の脇本陣、及び七十軒余りの旅籠があったらしい。

現在は本陣田中七佐衛門のみが残り、国指定史跡として保護され一般にも公開されている。

さらに東海道を少し京都方面へ向うと草津宿街道交流館がある。

Dscn2901_2

ここでは往時の宿の町並みや賑わいを再現してくれている。

Dscn2902

Dscn2904 さらに進むと太田酒造(株)という看板。

この太田酒造は"道灌"という酒を作っており、神戸のわが家の近くに営業所もあって私も好きな酒のひとつでもある。

ちなみに、この太田道灌という人物は室町時代末期、関東管領扇ケ谷上杉家の家老としてあの江戸城を築城した人物である。ただこのときの江戸城は、今の姿からは想像もできないような砦でしかなかったとは思うが。そしてこの江戸城は北条氏、そして徳川氏へと引き継がれていく。

この太田氏が徳川家光の時代に草津に移り住み代々関守の役目を務め、その子孫が造り酒屋を始めて今にまで続いているようだ。

今度来た時は、神社、寺社めぐりもしたいなぁ。

"道灌"を飲みたくなった。今日はこのへんで・・・。

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