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歴史

ぶらっと高知

今回は旅と歴史のお話、ランはちょっとだけ。

雨がやんだと思ったら寒波の襲来の中、ぶらっと高知へ出かけた。

明石大橋から淡路島を縦断、鳴門大橋から徳島へ入る。

徳島道を西進、吉野川S.Aで一服。

12月に松山へ行った時にも止まった所だ。

うどんがおいしいのだが、開店までもう少し。

その間にまわりを少し散策。

吉野川は昔から暴れ川として有名で、坂東太郎の利根川、

筑紫次郎の筑後川、とともに四国三郎と呼ばれ、三大暴れ川に

数えられている。

この吉野川S.Aは、この四国三郎が作った景勝地のひとつ、

美濃田の淵のそばにあり、遊歩道を少し歩けば、さまざまな

奇岩、怪岩の眺めを堪能できる。

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獅子舞岩・鯉釣り岩・妹背岩・

うなぎ巻岩・作造岩等という

名がついているらしいが、

どれがどれかは

わかりません。

さてうどんをいただいてから出発。

井川池田I.Cでいったん地道に下りて、これも有名な吉野川の

作った芸術品、大歩危、小歩危を目指す。

ここは以前にも来ているのだが今日は中2の息子がご同行なので

久しぶりに寄ってみることにした。

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小歩危を過ぎて景色を

楽しみながら車を

走らせていると、

mont・bellの大きな看板、

モンベルの大歩危店だって。

大きな駐車場に車を止め、

川を見下ろすと、そこは、ラフティング、カヤックの一大拠点に

なっている。

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店内もそっち方面の商品が

いっぱいだ。

また山では剣山や石鎚山も

近いし、なかなか

面白そうです。

さらに少し進むと本家、大歩危です。

昔ながらのドライブインと川下り舟のスタート地点。

今日は対岸からロープを張って、こいのぼりを泳がせている。

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水面にうつる影が本当に鯉が

泳いでいるようです。                   

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でも泳ぐ向きが反対だぁ・・・。

祖谷のかずら橋も行こうかと

思っていたが、時間も押して

きたので省略、

再び高速に乗り、高知へ。

今度高知へ行くにあたり、うなぎのうまい店があるよと聞いて

いたので、今日のお昼はうな重だ。

南国市は浜改田にある"かいだ屋"がそれ。

なぜだか駐車場の真ん中に鋼材を組んだ架台の上にセスナが

乗せられている。 これはわかりやすい。

ここのうなぎは注文を受けてから生きたうなぎをさばきだす。

高知といえばカツオですが、うなぎもうまかった。

近頃よくある脂がのるのはいいけれど、ギトギトのうなぎではなく

皮は香ばしく、身はうまみたっぷりだけどあっさりしていて、

またタレはこの素材を邪魔しない上品な味、これにサラダと

肝吸いがついています。

これが1700円、安いか高いかはそれぞれでしょうが、

大満足でした。

さて、いよいよ高知市内へ入る。

♪高知の城下へ来てみぃや、爺んばも婆んばも、みな踊る、

   鳴子片手に、みな踊る~♪

なんて口ずさみながら歴史好きとしてはとりあえず高知城へ。

高知城は、山内一豊が関が原での功により、遠州掛川5万石から

土佐26万石に封ぜられ、築いた城です。

大手門から城内へ入るとまず迎えてくれるのが板垣退助さん。

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フロックコートを着て右手を

前へ出すよく見るポーズです。

自由民権運動で有名ですね。

暴漢に襲われた時に

「板垣死すとも自由は死せず」

と叫んだとか、でもこの時は怪我だけだったようです・・・。

階段を上がっていく。 

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石垣が古い。

                   

                     

                    

                    

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見上げると、その石垣が

いくつか重なった上に

天守がみえる。

                   

                     

                      

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美しい・・・、いいお城だなぁ。

                 

                    

                     

                   

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少し上った所に大きな馬と

女性の銅像。

2006年の大河ドラマ

"功名ヶ辻"で仲間由紀江が

演じた千代さんです。

夫山内一豊が信長に仕えていた時代、まだ無名の

家来でしかなかった一豊は、馬揃えで信長の目にとまろうと、

良い馬を探していました。

そんな時、馬商人が連れていた立派な馬をどうしても手に入れたく

なるが、先立つ物がない。

これを見かねた千代さんは嫁入り道具の中から、夫に何か

あった時に役立てるようにと渡されていたお金を一豊に

差し出したのです。

これで馬を買った一豊は信長の覚えもめでたく、出世街道を

進み始めるという有名な逸話です。

でも土佐に来た一豊さんも千代さんも苦労されたようです。

長宗我部元親の家来だった一領具足と呼ばれる土佐の

地侍たちは、反抗したため、弾圧や慰撫を繰り返し、

なんとかかんとか、土佐の国を作っていったようです。

この時からの対立が幕末になっても変わらず、今の大河ドラマ

龍馬伝で描かれているように、一豊にもともと仕えていた家来

たちの末裔の上士と、地侍たちの末裔の下士との間には、おおきな

格差があったようです。

けれど、この下士たちの上士に対する不満が幕末を動かす

エネルギーになったのは確かですが、しかし彼らは死にすぎた。

吉村虎太郎、武市半平太、中岡慎太郎、坂本龍馬など、維新まで

生きていればとてつもない政治家になったであろう下士たちは、

幕府に殺され、土佐藩にも裏切られ、どんどん命を落として

いった。その数は長州や薩摩以上です。

そして新しい日本で実を取ったのは、上士である板垣退助や

後藤象二郎であったのは皮肉というしかない。

しかし、薩摩の西郷、大久保、長州の桂、伊藤などと比べると

小粒感は否めず、薩長土といわれるけれども、一流どころが

絶えてしまった土佐は主流にはなれなかったというところか。

Photo_11 これは山内一豊の像。

けど城外にある。

お千代さんは城内、

何でだろう。

              

                   

                    

                      

さて、高知城から定番の桂浜へ向かう。

中学の修学旅行以来だ。

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龍馬像を見上げ、桂浜を歩き、

坂本龍馬記念館を見学。

龍馬の手紙やお龍さんとの

新婚旅行などを見るとつくづく

思いますが、坂本龍馬という

男はほんと現代のその辺で

うろうろしてそうな感覚を

持っている人ですね。

さあ、そろそろ宿へ向かおう。

本日のお宿は少し東へ向かい夜須というところ。

宿を取るにあたって、龍馬伝のせいもあるのか、

どこもいっぱい。やっと取れたのがここ。

野洲とか、夜須とか、やすという地名には縁があるようだ。

リゾートホテルという触れ込みのお宿でした。

夕食は海賊焼きということで海鮮と牛、豚の鉄板焼き。

海鮮はもちろん野菜やフルーツが美味しい。

さてさて、あくる日は早起きして近くをランニング。

まずは海岸沿いを西進して手結岬。

Photo

竜宮様だって・・・。

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手結岬

                 

               

                

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手結港、土佐藩屈指の

良港だそうです。

この古くからある港を

整備したのが野中兼山、

土佐藩2代藩主山内忠義の

家老にして、天下の三山と称された人。

三山とはまずはアメリカ大統領ジョン・F・ケネディが

尊敬していたという上杉鷹山。

米沢藩9代藩主、藩の財政を立て直した名君として

知られています。

もう一人は熊沢蕃山といい陽明学者で備前岡山藩の初期の

藩政改革に功のあった人。

野中兼山も土佐藩の藩政改革を進め、財政を好転させたと

言われている。また彼は土木事業に功績が多く、この手結港も

その優れた技術を今に伝えている。

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石垣が見事です。

              

               

                  

この港の入口にはこんな物が。

Photo_7可動橋です。

1時間おきに開いたり

閉まったりしているようです。 

迂回路ですぐ

回れるんですが・・・。

さらに西へ行くとヤ・シィパーク。

  Photo_15 

"道の駅やす"のまわりに

海水浴場、ヨットハーバー

ビーチバレーコート、

こども広場などがあり

海辺の公園です。

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道の駅の駐車場には

大きなキャンピングカーが

3台ほど泊まっていた。

うらやましいね。

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すぐ横を遍路道が

通っている。

            

                

                

いたるところにこのような無料の休憩所も。

Photo_11お遍路さんをみんなで

応援しています。

四国では普通にある

風景ですね。

ぜひお遍路マラニックを

やりたい。

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そうして今度は国道沿いの

こんなサイクリングロードを

東進する。

                

急に開けた浜が見えた。

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琴ヶ浜というらしいんですが、

ここもウミガメの上陸地の

ひとつだそうです。

               

                

宿へ戻り、朝風呂をいただいてから朝飯をぱくつく。

やはり魚と野菜とフルーツがおいしい。

バイキングだったので朝から思いっきり食べすぎです。

今日は安芸方面へ向かう。

阪神のキャンプ地はほっといて・・・。

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三菱の創始者、岩崎弥太郎の

生家です。

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三菱の紋。

岩崎家のもともとの家紋

「三階菱」と土佐山内家

の家紋「三つ葉柏」を

あわせて出来た

そうです。

さあそろそろ帰路方面へ向かおう。

その前に酒蔵探しだ。

 Photo_13安田あたりでこんな酒蔵を発見。

清酒玉の井を造る南酒造。

純米吟醸の生酒を

仕入れました。

さああとは室戸岬とウェルカメの美波町を通って帰る。

 

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室戸岬の中岡慎太郎像

誰が言ったか、桂浜の

龍馬像と向かい合って

立っているというが、

この人はどう見ても

真南を向いている。

北西方面にある桂浜

に向いているとはどう無理をしても言えない。

みんながそうあって欲しいと思っただけのようですね。

室戸を越えると急に鼻がむずむず。

どうやら東風に乗って紀伊半島のヒノキの花粉が吹き付けて

いるようです。半島の東側と西側でぜんぜん違います。

今度は徳島に向けて北上です。

最後の寄り道、ウミガメの町美波町。

Umigame

ウミガメの産卵地

大浜海岸です。

            

               

すぐ近くにはウミガメ博物館カレッタがあります。

もう遅かったので閉まっていましたが・・・、残念。

初夏から夏にかけて海亀の上陸があるそうです。

一昨年は39頭でしたが去年は12頭だったとのこと。

海亀の産卵には細心の注意をはらっているようですが、

年によりむらがあるようだし、大変な作業です。

昔はどこの浜にも勝手に上がってきていましたが、現在は意識して

整備してやらないと、産卵できる環境は整わないようです。

さあ、遅くなった、帰ろう。

今回は姉ちゃんたち二人は置いてきぼりで嫁と息子と

三人旅でした。

息子はいつもはどこへ行っても興味無さげでしたが、今回は

姉ちゃんにカメラを借りてきて、景色をパチリパチリ。

すこし意識が変わってきたかな。

不滅の法灯

ブログ上では前後するが、縦走往復の前日、京都の比叡山

延暦寺へ行って来た。

日本の仏教の大本山にもかかわらず、神社仏閣めぐり好きにも

かかわらず今まで行ったことがなかった。

以前に一度マラニックでそばをかすめて走ったことがある程度。

今回はランなしで訪れてみた。

比叡山延暦寺。

伝教大師最澄によって開かれた平安仏教の本山。

最澄といえば弘法大師空海を連想するが、この二人、唐への

留学は同じ船で出かけている。

ただその地位は全然違い、最澄はエリートコースを歩んできた

超有名人で桓武天皇のブレーンにもなっているほどのお方、

かたや空海は自費で旅費を捻出して参加の貧乏学生。

空海さん自身もこの留学について自ら”虚しく往きて実ちて帰る”

と表現している。

つまり身も心もボロボロで行って、バリバリで帰ってきたよ

ということ。

往路はよほどみすぼらしかったのかもしれないね。

しかし唐において密教の第七祖恵果和尚に師事し、

師が亡くなった時には全弟子を代表するような地位にまで

なっていたそうです。

つまり密教の本流を学び、数々の経典なども手に入れ、

2年後に帰国する。

一方の最澄さん、エリートさんらしく多方面にわたり

お勉強している。

天台教学、大乗菩薩戒、禅、そして密教も・・・。

彼の場合は1年後に帰国していたのだが、空海が帰ってくると

どうやら密教については空海の方が上手だということに気づく。

しかしそこはまじめな最澄さん、エリートの見栄をはる事もなく、

密教においては空海に対し師に対するがごとく接し、

経典の貸出しも受けて研究に取り組む。

しかし空海が貸出しを断ったり、最澄の弟子が空海へ

くら替えしたりして、徐々に対立しだす。

この頃密教による加持祈祷が平安貴族の間ではやっていて

空海の密教は京の東寺を道場としていたので東密、

最澄側は天台ということで台密と呼ばれて競い合う。

いずれにしても新興宗教だった奈良仏教が平安仏教として日本に

しっかり根付きだす頃の熱い争いです。

そして空海さんは真言宗、最澄さんの弟子円仁、円珍により

日本天台宗の基礎が築かれ、この延暦寺で修行した法然、栄西、

道元、親鸞、日蓮などがそれぞれに宗派をたて、仏教は

発展していく。

Photo 最澄さんの教えの根本

「個々が一隅を照らす人になる」

つまり一人一人がたとえ

わずかでも精一杯輝ければ

周りはどんどんよくなっていく

という教えです。

                      

                    

延暦寺には開かれて以来、えんえんと守り継がれてきた

”不滅の法灯”がある。

Photo_2それは 総本堂

国宝根本中堂の

本尊薬師如来像

の前で光り輝いている。

              

正確には織田信長の焼き討ちに遭っていったん途切れたが、

他の寺に分灯されていたのを再び戻して復活したようです。

浄土真宗の本願寺も信長と戦っているし、延暦寺も

浅井、朝倉に肩入れして信長を随分苦しめていた。

確かにこの頃は宗教が武力を持ち、時の権力者に対抗する

図式は時々見受けられますが、延暦寺にも生臭坊主も

けっこういたようですし、信長さんもついに堪忍袋の緒が

切れたんでしょう。

Photo_4

歴史の波を受け続けた

延暦寺にはさまざまな史跡が

一杯だ。

これは大塔宮護良親王の碑。

建武の新政の後醍醐天皇の

第三皇子で延暦寺の最高の

地位である天台座主にまで

登った人、これも延暦寺の武力を鎌倉幕府を倒すために

利用しようとした後醍醐天皇の遠謀であったといわれ

親王もそれに応えて僧侶としての修行そっちのけで、武芸の

鍛錬をしていたような天性勇武の質だったらしい。

しかし結局足利尊氏の弟、足利直義に暗殺されてしまう。

いつまでも興味は尽きませんがそろそろ帰ろうとロープウェイ

方面に向かっていると、なんか見覚えのある景色。

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以前に土砂降りの中

マラニックで通った道に出た。

                 

                  

                   

少し開けた広場から北側に広がる山々がよく見える。

天気がよく、空気も澄んでいてかなり遠くまで見通せる。

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比良山らしい。

                 

                    

        

Photo_3  

これも焼き討ちの時に

殺された人の供養塔かな。

女性や子供たちまで

やられたそうだからね。

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そのすぐそばには

こんなきれいなトレイルが・・・。

以前は土砂降りで全然

わからなかったけれど

おもわず走っていきたくなるような道です。

ずっと歩いていると、走りたくなってきた。

菜の花忌

菜の花忌

少し過ぎてしまいましたが、2月12日は菜の花忌でした。

なんのこっちゃ・・・。

実は、作家 司馬遼太郎の命日です。

歴史小説をいろいろ読みあさってきたけれども、家にある

小説の中で一番多いのは、氏の作品である。

もちろん氏の作品の多さもあるが、たくさん歴史小説家と

いわれる人がいるなかで、圧倒的にファンだったことの

結果だと思う。

一番初めに読んだのが何かは忘れてしまったけれど、たぶん

”国盗り物語”だったような気がしますが、彼がかく歴史は

いつのまにか自分の歴史観の大きな部分を占めてしまっている。

歴史学者や歴史研究家の方たちからは司馬史観といわれて

独自の歴史観だといわれていますが、私にとっては

まず司馬史観ありき、あとからそれが氏独特の考え方である

ことを知る、そういう順番でした。

その史観を作り上げたのは膨大な量の資料や文書の調査、

そして実際に現地へ行っての聞き込み(刑事じゃない?)に

よるもののようですね。

また聞くところによると彼は速読の名人だったそうです。

人と対談をしながら一冊の文庫本を読んでしまったとか、

たぶん字を見ながらの要点読みだとは思うが、

すごい速さだったようです。

たしかに資料を調べて、自分なりの流れを作り、

小説にするわけですから、氏の作品の多さから見ても

のんびり読んでいるわけにはいきませんよね。

そして現地調査、書こうとする作品の主要な土地へ実際に

赴き、土地柄、その土地の雰囲気まで調べ上げる。

それは”街道を行く”という紀行文になっているのだが、

小説を読んだ上で、この旅の様子を読むと、また

違った面白さがあって、これにも結構はまりました。

その時その人物が何を考えてどんな行動をとったかを、

今その土地で生きている人たちから何かヒントを

得られないか、そんな旅をしている。

”街道を行く”こと自体が司馬遼太郎のライフワークで

あるかと思うほど旅もお好きだったようですね。

そんな中から生まれた司馬作品。

初めて読み出した時から、毎作品が面白くて面白くて、

読みあさっていましたが、ある程度読んでいった時に、

一番印象に残っていた作品はというと、土佐の戦国大名

長宗我部元親を描いた”夏草の賦”。

司馬氏にとってはたんたんと生み出していった作品の

一つかもしれないけれど、なぜか頭に残った作品でした。

土佐から勢力を広げだし、四国全土を手にしようとした矢先、

信長、秀吉という大きな壁に阻まれ、泣く泣く膝を屈する。

他の三国を手ばなし、また土佐一国に押し込められてしまう。

しかし、それだけではすまず、宮仕えのつらいところ、

秀吉の九州島津攻めの時、あほな上司のせいで、

有能で将来を嘱望されていた最愛の長男、信親を死なせてしまう。

がっくりきた元親は四男盛親に家督を譲り、一気に覇気を

失ってしまう。

この長宗我部信親、享年22歳だった言われるが、

非のうちどころのない青年だったようで、身の丈六尺一寸、

当時男でも160cmほどが普通の時代に185cmは

巨人に見えたかもしれません。

色白柔和にして、勇猛果敢、戦上手で家臣、領民にも

人気絶大。

九州島津氏との戸次川の戦いにおいて、豊臣氏の

軍監・仙石秀久の無謀な進撃命令のため、土佐勢

の主力二千名と共に敵中に孤立してしまう。

この時仙石秀久くんはさっさと逃亡していたそうですが。

何万という島津勢とたった二千人の土佐勢、戦いの結果は

決まっていますが、この時、信親と土佐の重臣たち、それに

剽悍で知られた一領具足と呼ばれる土佐の地侍たちは、

当時でも信じられないような戦いを行います。

重臣たちは全滅、全体の戦死率は7割を超えていました。

普通、軍用語で全滅というのは人が全部死ぬことではなくて

軍としての機能が果たせないことを指します。

だから戦死率で言えばひどい戦いでも3割。

つまりある程度やられれば逃げ出してしまうというのが普通。

だから7割の戦死率というのは誰も逃げず、誰も降参せず

徹底的に戦った証であり、誰よりも相手の島津側が驚き、

元来、勇猛であることに非常に重きを置く家風であることや

他の豊臣軍がさっさと逃げ出してしまった事もあり、

信親の遺骸を丁重に扱って返還し、土佐勢全体に

最大限の敬意を払ったようです。

そんな息子を失った元親の失望は察してあまりあります。

なんにもする気がなくなったとでも言いましょうか。

司馬遼太郎もそんな元親の身になって作品を

書いていたのかもしれません。

私にとっては妙に印象的な一冊でした。

もうひとつ、”坂の上の雲”。

今年から、スペシャル大河ドラマという位置づけで2,3年かけて

完結されるテレビドラマ化されるようです。

司馬遼太郎自身、戦時中は大陸で戦車に乗っていた

こともあって、日本人は何でこんな馬鹿な戦争を

おこしてしまったのかという思いを持ったようで、そのことが

日本人には過去にはもっと素晴らしい人間がいたはずだと

考え、歴史小説を書き始めたという話もあります。

あの戦争の是非もあるし、現在の日本を見ても首をかしげるような

政治家が多い中で、未曾有の国難に際し政治家も国民もひとつに

なってそれに対抗し何とかしのぎきった明治の日本に対し

ある種の憧憬を感じていたのかもしれませんね。

私もこれをはじめて読んだ時に、太平洋戦争を描いた小説や

戦記を読んだ時と比べて国や軍の非合理性を理由にした

損害、犠牲の話が少ないことが読んでいて心地よかった。

ただひとつ日露戦争の中で消耗戦となった旅順攻略戦において

これを指揮した乃木希典をこきおろしてしまっています。

司馬遼太郎にとってこのときの乃木は昭和の日本につながる

精神主義のかたまりのように見えたのかもしれませんね。

ただ明治維新を経て藩の領民でしかなかった民というものが

はじめて日本国民という意識を持ち出した明治の日本は、

いろんな意味で活力にあふれていたんだろう。

愛媛にいた普通の兄弟が兄は世界最強と言われたロシアの

コサック騎兵に対し、矮小な日本騎兵を指揮して少なくとも

負けなかった、そして弟はロシアのバルチック艦隊との決戦において

その作戦を立案し圧倒的な勝利を演出した、またその友人は

俳聖、松尾芭蕉以来の俳人として名を成す。

この三人を中心に話は進んでいきますが、たしかにそこには

かっこいい日本がある。

結局、司馬遼太郎は日本人を大好きでいたかった、そのために

かっこいい主人公を作り続けたのかなとも思う。

彼の作品を読んでて思うのはその主人公の一番のファンは

彼自身であるということ、”龍馬が行く”の中の龍馬を

司馬遼太郎は好きで好きでたまらなかったんだろうね。

紀州口熊野と田辺

今週末は紀州口熊野マラソン、和歌山県は上富田町、大塔町、

中辺路町で開かれる大会で、ここ4~5年は毎年参加している。

地域が一体になって手作りで大会を盛り上げているので

雰囲気がよく、あったかい感じがして気に入っている。

今年も嫁ともどもエントリー、楽ランからもT姐さん、Kばやん、

Kみちゃん、CHエイスさんも出場予定だ。

今回は走る前に歴史の予習をしていきましょう。

さてさて、紀州口熊野とは何ぞや?

紀州はもちろん紀伊の国、口熊野とは熊野への道

熊野古道の入口という意味らしい。

熊野周辺は日本書紀にも登場する自然崇拝の地である。

日本書紀、神代記に伊邪那美命が死んだ時、熊野の有馬村と

言うところに葬られたという記述があるそうな。

古来、熊野は山岳信仰から修験道の修行の地とされた。

その中から、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社が

興ってくる。

その祭神は、それぞれ家都美御子神(けつみみこのかみ)、

牟須美神(むずびのかみ)速玉神(はやたまのかみ)である。

やがてこの三社それぞれの神が、三社共通の祭神になっていく。

また神仏習合により、家都美御子神は阿弥陀如来、

牟須美神は千手観音、速玉神は薬師如来とされ、熊野三山と

呼ばれ、仏教的要素が強くなっていく。

また熊野三社で祀る神の総称を熊野神、熊野権現などとも言う。

権現とは仏や菩薩が人々を救う為に仮に神の姿で現れること。

いったい神さんなの、仏さんなの、どっちやねん。

日本人ってほんとに面白いね、勝手に解釈作って、何でもOKというか、

長所でもあるんだけどね。

外国の敬虔な宗教家から見ると理解できないらしい。

さて熊野参詣は、907年、宇多法皇(誰かの名前に似てるぞ)

に始まり、頻繁に行われるようになったのは1090年からの

白河上皇の9回の行幸から。

この後京都の公家の間で熊野詣が流行りだす。

後白河上皇にいたっては33回も行幸している。

これに伴い、熊野街道が発展し、街道沿いに九十九王子と

呼ばれる熊野権現の御子神が祀られた。

この九十九王子についてはよくはわかっていないようだ。

熊野までの参詣者の庇護を祈願したのではないか

というのが一般的らしい。

熊野三山遥拝を行ったのではないかと言われたが

史料上にはその記録はなく、また参詣の時の宿だとか、

物品の補給を行ったとかもいわれるが、帰路にはほとんど

顧みられていないところからこの説もあたらないといわれている。

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つまり中世の皇族、公家たちが

参詣するおり、先達を努めた

熊野の修験者たちが京都からの

道中、紀伊路、中辺路、大辺路で

住人の祀る雑多な神々である諸社を王子という名で呼び、

熊野権現の御子神と認定して参詣の道中の安全を願ったと

いうところか。この王子も鎌倉時代以降は衰退する。

さらに時代がくだると、伊勢参りと並び、熊野詣は広く

武士、庶民が行うようになった。

熊野と浄土信仰の繋がりが強くなると、念仏聖や比丘尼のように

民衆に熊野信仰を広める者もあらわれる。

次第に民衆も熊野に頻繁に参詣するようになり、「蟻の熊野詣」

と呼ばれ熱狂的に人々の心を熊野へと駆り立てた。

一時は熊野付近の旅籠に1日で800人もの宿泊が記録された

こともあったそうだ。現代の行楽地と比較してはいけません。

人が動くことが少なかったあの時代では驚異的な数字です。

また、各社で発行される熊野牛王符は護符としてのほかに、

起請文(誓約書)の料紙として使われ、この牛王符に書いた

誓約を破ると神罰を受けると信じられた。

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たとえば武将が他の武将の

傘下に入る時など

熊野牛王符に

誓約などを書き、

裏切らないことを誓う

というような使われ方もしたようだ。

このようにして熊野権現は日本全国に勧請され、各地に

熊野神社が建てられるようになる。

熊野神を祀る神社は日本全国に約三千社にのぼる。

中でも沖縄では、神社の殆どが熊野権現を祀っている。

江戸時代後期になるとピークは過ぎたものの盛んであった

熊野信仰も紀州藩による神仏分離政策で布教をしてきた聖や

山伏、熊野比丘尼の活動を規制したため衰退し明治維新後

になると神仏分離令(くっつけたりはなしたり、忙しいことです)

により熊野古道周辺の神社は激減、熊野詣の風習もほとんど

なくなってしまう。

しかし熊野古道は生活道路として使用され続け、もちろん

廃道になってしまったところもあるが、最近では

世界遺産に登録され、整備されて、訪れる人もかなり

増えているようです。

きっとトレイルランナーもいっぱい走っているんでしょう。

またこのマラソンのスタート地点の上富田町のお隣に

田辺市がある。JRの駅は紀伊田辺。

どんなに歴史にうとい人でも名前くらいは知っている武蔵坊弁慶。

ここ田辺は弁慶の生誕の地といわれている。

しかしこの弁慶、名前が有名なわりに実際の歴史上は謎だらけ

の人物で、一時は実在すら否定されそうになったほど史書には

出てこない。「吾妻鏡」で義経が都落ちするところで、一行の

中に名前が見える程度。

弁慶が大活躍するのは義経記などの史実という観点からいえば

あやしげな書物だけなのです。

義経記に出てくる弁慶の生い立ちを紹介すると、

まず弁慶の母親の妊娠期間は18ヶ月、生まれた時は

2~3歳児の大きさで、奥歯まではえそろい、髪の毛は

肩まであったそうな。幼名は鬼若、これなんぞ牛若丸に

会うために作った名前としか思えませんね。

そして父親は熊野の別当弁しょうということになっているが

熊野の別当といえば熊野の修験者の最高権力者、

その息子ということになれば、その名前が出てくるはずなのに

別当の代々記にも弁慶の名前はありません。

また名前の由来である武蔵坊というのは比叡山の西塔には

ありません。

このように義経記というのは歴史書というよりも、創作小説

と考えた方が良いようです。

京の五条の橋の上の出会いから、東北の平泉、源平合戦、

悲劇のヒーロー義経に最後まで付き従った忠実無比な豪傑。

最後は義経を守って敵の前に立ちはだかり、全身ハリネズミ

のように矢を受けながらも倒れず立ったまま絶命する。

日本人が大好きな話には仕上がっています。

坂本竜馬と並び日本史上の最大の人気者の一人である

ことはたしかですね。

なんてことを考えながら今年の口熊野マラソンを走ろう。

浪速路こてこて観光&グルメマラニック歴史編

1月17日、阪神大震災の日。

あれからもう14年も経ってしまいましたね。

早朝、地震発生時刻の前からテレビは地震一色。

各地の追悼行事を伝えている。

あらためて、犠牲になられた方の冥福を祈りましょう。

さてこの日は楽ランEASTからの賓客を歓迎するマラニックが

行われた。1日中走り回って大阪を堪能しきってもらおうという

題して、浪速路こてこて観光&グルメマラニック。

グルメについては参加メンバーが各ブログでいっぱい

報告があると思うのでここはあえて歴史に注目しながら

追っかけてみることにする。

スタートは大阪のランナーたちの聖地、大阪城公園。

ここから本丸へ入る。

太閤豊臣秀吉が築いた、名城大阪城。

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もちろん当時のままではなく、徳川時代に一度、建て替えられたが

その後落雷で焼失、その後はしばらく天守閣のないお城であった。

昭和になって市民の募金によって再建される。

太平洋戦争中の空襲でかなりの櫓、門などに被害が出たが

天守閣は被害を免れた。

その後も何度か改修を行って現在に至っている。

歴史の表舞台をかざったお城だけに逸話も多い。

淀君、秀頼の物語、大阪冬、夏の陣などあまりにも有名ですが

秀吉以前は何だったかといえば、石山という小高い丘の上に

本願寺、つまり浄土真宗のお寺が建っていたのです。

そしてそこはもともと本願寺中興の祖、蓮如上人の隠居所、

さらにその前は生国魂神社があったとされ、その由来は

神武東征のおり難波の津に上陸した神武が国土の神である

生島神、足島神を祀ったのが始まりとされる。

さらにその前は古墳があったそうな・・・、もういいか。

さてマラニックは大阪城を出て大阪天満宮を訪れる。

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ご存知天神さん、菅原道真を祀り、夏に行われる天神祭りは

日本三大祭の一つに数えられる。

                                                                           

                                                                              

菅原道真公はその頭のよさ、精神の美しさから天皇の信頼を

得たため、時の勢力者、藤原氏に危険視され、九州へ流される。

そして再び復帰することなく不遇のうちに没する。

彼がなくなったとたん、都では疫病がはやり、親王のうちで病死

するものが多く、また清涼殿に落雷があり死傷者が出たりする。

これが道真のたたりだとされ、京都に北野天満宮、九州に

太宰府天満宮、大阪天満に大阪天満宮が相次いで立てられ、

道真の怒りをおさめようとした。

天神信仰の始まりである。

しかし平安末期から鎌倉時代にかけては、そのたたりは

次第に忘れられ、彼の頭のよさから学問の神様ということに

なって今に続いている。

天神さんにお参りしたあとは、繁盛亭の前を通り

天神橋筋商店街を北上。行列の出来るコロッケ屋さん、

中村屋のコロッケをかじり、今度は昼間は静かな歓楽街、

北新地を爆走する。

四ツ橋筋を南下、再び行列を発見。堂島ロールに並ぶ行列だ。

しかし予約を入れていたので行列はスルーでロールケーキに

ありつく。中ノ島から市役所前を横切り中央公会堂から南下。

すぐ適塾が見えてくる。

正しくは適々斎塾、幕末の蘭学者、緒方洪庵が開いた塾である。

門人には慶応義塾の創始者"福沢諭吉"、日本陸軍の創始者

"大村益次郎"、日本赤十字の創始者"佐野常民"、安政の大獄で

斬首された越前の医師"橋本佐内"、他にも大鳥圭介や

変わったところでは手塚治虫のひいおじいちゃん"手塚良仙"など

がおり、幕末から明治にかけて日本の近代化に大きな役割を

果たしたそうそうたる人物たちを育てた私塾である。

またこの近くにこの適塾と同じような古い建物の幼稚園がある。

愛珠幼稚園といって創立明治13年だそう。

さらに少し南へ行くと湯木ビル、湯木美術館がある。

日本料理"吉兆"の創業者、湯木貞一氏の茶の湯のコレクションを

収蔵、展示している。

その中にはなんと重要文化財11点、重要美術品3点が

含まれている。

またここのすぐ向かいに小さな碑があったので見てみると

北組惣会所跡。

なんのこっちゃ、恥ずかしながら知らなかったので、

帰って調べてみると、江戸時代の大阪は大川をはさんで三つに

区分され、大阪三郷と呼んでいた。それが天満組、北組、南組で

それぞれに惣会所が設けられ、町人による自治機関として町の

行政を処理していたそうである。

こういう町の暮らしの歴史というのはなかなか知る機会が

ないのでいいお勉強でした。

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マラニックはさらに続き、アメリカ村から道頓堀に入る。

ここも有名な話だが安井道頓らが私財をなげうって運河を掘り

1615年に完成、道頓堀と名付けられる。

これに沿って劇場ができはじめ、それに伴い飲食店も増え、

多種多様な建物があふれる地域となった。

ここで、老舗屋台"大たこ"のたこ焼きを賞味、ついでに麦酒

などをちびり。

次の名所は、藤島桓夫の"月の法善寺横丁"で有名な

(若い子は知らない?)法善寺横丁へ。

法善寺は浄土宗のお寺、本尊は阿弥陀如来。

この寺では千日念仏を行ったところから千日寺の別名もある。

このことから寺の前を千日前と呼ぶようになったとか。

さあ道具屋筋を抜け今度は大阪の台所"黒門市場"、

でっかいとらふぐがごろごろ、さすがにこれは買い食い

できません。ここはもと円明寺市場といい円明寺というお寺の

そばにあったのでこの名になり、さらにその山門が黒かった為、

黒門市場になったようだ。

黒門市場を出て向かうのは今宮戎神社。

1月10日にはとてつもない人でにぎわう"えべっさん"だ。

いつも行くのは西宮戎だから、ここを訪れてみるのは初めて。

すると小さい! 西宮よりはるかに大勢の人でごった返している

ニュースを良く見るので意外。

また各地にある戎神社の総社は西宮神社といわれている。

これを言うと大阪の人の中には怒る人もいるが、大きさから

見ればそのようでもある。 今宮という名前ももともと今西宮

から来ているといわれているし、まず西宮がさかえた

のかも知れないね。商業都市として大阪が大きくなる

にしたがって今宮が有名になってきたというところか。

ちなみに”商売繁盛で笹持って来い”というのは

西宮では一切言いません。

もうひとつ興味を持っているのが西宮神社の北の方には

廣田神社という大きな神社がある。阪神タイガースの

優勝祈願でも有名だが、西宮神社は廣田神社の南宮で

あるとも言われている。そして今宮神社の北にも

同じように廣田神社があるのです。

西宮神社と今宮神社の関係はかなり深い物が

あるのかもしれません。

ということでこてこてマラニックもいよいよ通天閣で

ゴールです。そのすぐ足元にあるラジウム温泉で湯浴み、

ジャンジャン横丁近くで打ち上げ。

もちろん最後は二度づけ禁止の串カツで締めでした。

T姐さんとBさん、

発案、企画、構成、引率、ほんとお疲れさんでした。

すめらみことのたからもの

奈良の国立博物館で正倉院展が開かれている。

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初めて訪れてみた。

                                          

                                              

                                           

正倉院は有名な東大寺大仏殿のすぐ北西のそば、

高床式校倉造(あぜくらづくり)の倉庫、社会科で勉強しましたね。

ここには第45代の聖武天皇と光明皇后ゆかりの宝物を

はじめとして天平時代を中心とした美術工芸品が

多数納められている。

聖武天皇といえば東大寺大仏の建立を命じた天皇として

有名だが、この正倉院はこの東大寺の倉庫として建てられた。

もともと正倉とは税を納める倉という意味。

また大きなお寺で寺領から納められた品や、寺で使用する

什器などを収蔵する倉のことを正倉といって他のお寺にも

いくつかあったようだが、東大寺以外はなくなってしまったので

固有名詞化したようだ。

大仏建立を命じたように聖武天皇と光明皇后は仏教に帰依する

ところ大きく、聖武天皇がなくなった時に光明皇后が遺愛の品々を

東大寺に奉献したことが始まりらしい。

その後もたびたび日用品や献上品などを納めたようだ。

さてここに納められている宝物の数々、いったいどんな物なのか?

ざっとあげてみると、絵画、書籍、金工、漆器、木工品、刀剣、陶器、

ガラス工芸品、楽器、仮面など日本のものはもちろん、中国、西域、

遠くはペルシャなどからの輸入品も見られる。

このため奈良はシルクロードの東の終点とも言われる。

さすがに写真撮影は禁止なので写真はありませんが、

実物を見ていくと美しさもさることながらそれを作った

職人の技が見事。

また千何百年も経っているとはとても思えないつやの

木工品もあり、保存状態の良さをものがたっている。

奈良時代、西暦で言えば七百年代、古代と呼ばれる時代から

何年も経っていない時代にこういった工芸品が存在したことに

驚かされる。

と同時にこれらは税として納められたものもあるだろうし、

賄賂として献上された物もあるだろう。

役人や貴族たちがこういうものを作らすために、当時の

民衆たちからどれだけしぼりとったのだろうかなどということを

ついつい考えてしまった。

それだけ天皇の権力が強大だったということなのかな。

天皇(すめらみこと)の宝物でした。

阿保親王塚

今月は走込月間ではあるが今週は少し距離を落とす週。

とはいえそろそろ山も恋しくなってきたのでロードと山行を

組み合わせてみた。

家から芦屋、西宮を抜け、宝塚まで舗装路を走る。(約15K)

宝塚から縦走路へ入り一軒茶屋から岡本へ山を下る。(約21K)

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山手幹線沿い、阿保親王塚古墳。                               

                                   

                                  

                                                                                                    

                                                                         

しかし、まだまだ暑いですね。風もあまり無く、宝塚へ行くまでに

かなり消耗してしまう。

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今日はここが入口。

                                  

                                                                         

 

                                     

山を登りだせば涼しくなるだろうと思いながら進むがいっこうに

気温は下がりません。昼近くなって逆に上がってくる感じ。

宝塚から一軒茶屋まで二時間くらいのつもりが二時間半近く

かかってしまった。足にもだいぶきているようだ。

茶屋で一服しながらハイドレにも補給。

登りなれた道を今日は下る。

さすがに気持ちよく下るというようには飛ばせない。

ひざは笑ってはいないがニヤニヤぐらいしているようだ。

何とか家まで到着。思ったより厳しかった。

ところでこれからはランニングコースの近くや道端にある神社、

仏閣、史跡その他、歴史をうかがい知る様なもの何でも見つけて

書いてみようかと思う。

今回は芦屋市翠ヶ丘にある阿保親王塚古墳。

この古墳は結構わかり難い所にあったのだが最近になって

開通しつつある山手幹線がすぐそばを通ったので、この道を

走っていると見えるようになった。

まずは読み方から、アホな親王のお墓ではありません。

あぼしんのうと読みます。誰やそれという方には、

阿保さんは知らなくても在原業平といえばご存知の方も多いはず。

六歌仙とか三十六歌仙といわれて有名な方で、古今和歌集には、

三十首が入集している、お歌の上手なおっさん。

「世の中に たえて櫻の なかりせば 春の心は のどけからまし」

また伊勢物語の主人公だとも言われている。

この在原業平のおやじが阿保親王。

もっというと阿保親王のじいさんが平安京へ遷都を行った

桓武天皇。朝廷の力が膨張していく時代ですね。

空海、最澄が活躍するのも、坂上田村麻呂が命ぜられて蝦夷を

北へ追い上げて行ったのもこの頃。

桓武の次が平城、その次が嵯峨。阿保さんの父上が平城天皇。

つまり桓武からいえば、直系の孫なのですが、この後の皇統が

嵯峨天皇の方へ行ってしまった為に、業平の世代には臣籍に降下

してしまったというわけ。

この平城と嵯峨の権力争いは激しいものがあった様で、結局、

嵯峨側が兵を動かし、平城が出家して決着する。

この時、平城の愛妾藤原薬子、その兄の藤原仲成らが処罰される。

このためこの政変は「薬子の変」と呼ばれている。

阿保親王もこの変に連座して左遷の憂き目に会うが嵯峨天皇が

宮廷内の権力を固めて行く中で、平城が亡くなった後許されて

入京を許される。

そしてかなり重要な地位を歴任していくが、桓武直系の孫、

平城の第一皇子という立場はかなり微妙な物があったようで、

彼の動向は、彼の有能さもあり常に注目の的であったらしい。

後、恒貞親王の皇太子問題で策謀を持ちかけられるが、

これに与せず密告する。このためこの策謀は潰える。

しかし、彼はこの承和の変の三ヵ月後に急死する事になる。

このあたりも何かきな臭いにおいを感じる。

なんといっても平安時代のこのての事件は列挙に暇が無いし、

暗く陰湿なものをいつも感じる。

皇統の争いは暗殺の歴史といっても過言ではない。

阿保親王もこれに翻弄され続けた一生だったに違いない。

死後に一品の品位を追贈されている。

ところでこの阿保親王塚古墳、長州の毛利氏は阿保親王から

出ているとのことで、江戸時代に修復工事を行ったりしている。

現存する燈籠も毛利氏が贈った4対のうちの3対で1対は

阪神大震災で壊れたとか。

また芦屋には親王塚町、業平町、業平橋などこの父子に

まつわる地名が数多くある。

彼らがこのあたりに住んでいたという確定はできないらしいが

当時このあたりが朝廷の直轄領であったことは確からしく、

屋敷を持っていた可能性は高いらしい。

ただ最後にこんなことを書くのもなんだが、

この阿保親王塚古墳は、建造された時代とかを検証すると

どうやら阿保親王の墓ではないようだ。

ここに限らず、宮内庁の定めているものと実際の調査に

基づくものとの食い違いは全国津々浦々にあるが、

そろそろ何とかしていくことはできないのでしょうかねぇ。

今年のGWは・・・

今年のゴールデンウィークは、27日の六甲縦走にはじまり、

29日はホームバーベキュー、30日は奈良方面へゴルフ、

1日、2日は神戸にできたIKEAを偵察に行き、

購入してしまった机と棚の組立。

3日は、やりのこした仕事を片付けに会社へ行く。

そして4日、5日は、楽ランの春季合宿で京都は丹波自然

公園へ。

長距離のペース走、坂道ダッシュの必要なリレー、

公園内のクロスカントリーと多彩なメニューをこなし、夜は夜での

大宴会と充実の時間を過ごし、最終日6日は裏山へハイキング。

毎年GWはたいてい半分以上仕事でつぶれ、残りは地域の祭りで

終わってしまうのだが、今年はかなり中身が濃かったなぁ。

ということで、その祭りで曳かれるだんじりの話。

だんじりといえば何といっても岸和田ですが、大阪湾沿岸を

中心に、近畿地方に広く分布している。

ルーツはやはり京都の祇園祭で、各地でそれぞれ

特色のあるだんじり祭りが行われている。

合宿から帰ってくると、こんなやつがうろうろしている。

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これはわが町、田中のだんじり。

この辺りでは一番の巨大だんじりである。                                   

このだんじりは、現在では神戸型といわれているそうで

神戸の生田川から、西宮の夙川の間で使われている。

地域的に灘五郷と呼ばれるところと一致しているのは、

スポンサーとして酒屋がからんでいたのかもしれないね。

現在は中でも本住吉神社、保久良神社を総社とする

住吉、本山のだんじりが盛んである。

何十台もが勢ぞろいするだんじりパレードがあったり、

他の地域で行われるイベントに出張したりすることもある。

神さんは怒らないのかなとも思うけど・・・。

自分自身の小さい頃はずいぶん燃えたし、

子供ができてからは、いっしょになって追いかけまわしたり、

楽しい思いをさせていただいた。

他の地域の祭りを観光で見に行くのも良いけれど、

わが町にこういうお祭りがあるというのは幸せなことだと

しみじみ思う今日この頃である。

この日は最終日で午後8時頃から駅前の広場で練りまわし

するので見に行こうと思っていたが、食事の後、合宿の

疲れがどっと出て、倒れるように寝てしまった。残念。

大学生になる2番目の娘は小さい頃からだんじりが大好きで

いまだに10時ごろに神社に戻り車庫の扉が閉まるまで

見届けてから帰ってくる。

今年は若中衆でもめごとがあったそうだ。

まあ、祭りにけんかはつきものか。

これはあくる日に聞いたことですが・・・。

さて最終日は山へ。

縦走から1週間以上たっているので、むずむず。

さすがに少し疲れ気味で走るのはやめ。

十文字山の巻き道から水平道を通ると、

Photo

                                                                           

                                                                         

                                                                           

新緑に太陽の光が当たり、えもいわれぬ美しさ。

そして最高峰への銀座通りへ出る。

しかしすぐ道をそれ、今日は荒地山へ向かう。

ここはその名の通りばかでかい岩がごろごろしている。

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もちろん、岩ばかりではなく、雰囲気の良い森の風景も続く。

あぁ、気持ちいい。

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日本の登山発祥の地といわれるロックガーデンはすぐそば。

岩の多い山である。

Aretiyama

                                                                           

                                                                           

                                                                         

荒地山からの下りにはこれも有名な

岩梯子と呼ばれる岩の壁がある。難所というか一つ間違えれば

何十メートルも転落しそうな岩の壁をそろそろ降りる。

さらに下りていくと芦屋の北、城山と呼ばれている鷹尾城跡に出る。

城跡とはいえ、お城であることをうかがい知るものは何もない。

この辺りでは鷹尾城の戦い、芦屋河原の戦いと呼ばれる著名な

合戦があった。室町末期から戦国時代にかけて、細川氏、赤松氏

瓦林氏による勢力争いの中心であったようだ。

そんなところを通り抜けるとすぐに阪急芦屋川。

気持ちのよい散歩でした。

適々斎塾

今日は何の日というページをみていると、明後日3月23日は

幕末の蘭学者、緒方洪庵が大阪に適塾を開いた日。

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適塾は正式には適々斎塾と言い、洪庵の号、”適々斎華陰”から

名づけられた。

門人には、

福沢諭吉、言わずと知れた、慶応義塾の創始者。

大村益次郎、明治政府の初代兵部省兵部大輔、日本陸軍の創始者

で大河ドラマ”花神”の主人公。長州時代の名は村田蔵六。

佐野常民、日本赤十字の創始者。

橋本佐内、越前藩の医師,開国思想を持ち、安政の大獄で斬首。

大鳥圭介、戊辰戦争では函館の五稜郭に立てこもり、最後まで

抵抗、投獄されるが後に明治政府に出仕、清国、朝鮮公使になる。

変わったところでは、手塚治虫の曽祖父手塚良仙も適塾の出身

である。

幕末から明治にかけての日本の近代化に大きな役割を果たした

このそうそうたる人物たちを育てた私塾である。

緒方洪庵はもともと岡山足守藩の出身、大阪、江戸、長崎で学び

1838年、大阪に戻って医業を開業するとともに、この日適塾を

開いた。 ここで学んだ塾生は千人にも達すると言われ、偉大な

教育者であったことはその門人たちが証明している。

緒方洪庵は、種痘を広めたことでも知られており、大阪はもちろん、

出身地の足守藩にも招かれ、たくさんの子供たちに種痘を

施している。また幕府の再三の招きにより江戸で、奥医師にまで

なっている。このころ手塚治虫のひいおじいちゃん良仙も江戸で

歩兵屯所付医師(軍医みたいなものか?)になっている。

この適塾は閉塾する際、大半の教師、塾生が新設の大阪医学校へ

移ることになる。この大阪医学校は後に大阪帝国大学へと発展

していくので、いまの大阪大学の源流は適塾にあると言っても

いいようだ。

ちなみに現在、適塾は史跡公園になって、大阪北浜にその姿を

しのぶことが出来る。

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塾の内部も見学できるようになっていて、

塾生が学問についての口論が激するあまり、刀を振り回して

出来た柱の疵なども残っている。

教える方も教わる方も今の学校との差を感じずには

おられませんね。

激動の時代に、すばらしい先生と熱い生徒たちがいた学校を

見てみるのもいいかも。

桜井の別れ

仕事で訪れた大阪府三島郡島本町。

大阪府の郡も少なくなってきたがそのうちのひとつ三島郡、

高槻と山崎の間になる。阪急の駅でいえば"水無瀬"。

ここには"太平記"ゆかりの史跡がある。

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史跡内はたくさんの

楠が生い茂っている。

九州から攻め上がってきた足利尊氏を迎え撃つために、湊川へ

向かう楠木正成が後事を託す嫡子 正行(まさつら)と別れを

惜しんだ西国街道の”桜井の駅”跡である。

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楠木正成。

この人を知らない人はいないと思うが、もともとは河内の土豪。

ひょんな事から後醍醐天皇と出会い、ぽんと肩をたたかれた

ために意気に感じ、後醍醐のために奮戦することになってしまう。

こんなことがなければただの大阪(当時この地名はないが)の

河内のおっさんとして、歴史の中に埋もれていたであろうのに。

時は1334年、この楠木正成、足利高氏(尊氏)、新田義貞など

の力を借り、後醍醐は建武の親政を実現させる。

ところが始まってみると、天皇親政とはいえ、やってることは

公家の好き勝手。世の武士たちの不満を結集させて鎌倉幕府を

倒したのに、功績のあった武士たちに報いるところがあまりにも

少なすぎた。また新たな不満が世にはびこりだす。

これに乗っかったのが足利尊氏、反逆の旗を揚げる。

しかし、いったんは楠木正成、新田義貞、奥州の北畠親房、顕家

父子などの奮戦で尊氏は九州まで追い落とされる。

しかし全国の武士たちの期待を一身に背負った尊氏はすぐに

勢いを盛り返し、大軍を率いて京へ向かって攻め寄せてくる。

これに対し楠木正成が後醍醐に示した戦略は、京は攻めるに易く、

守るに難い土地である、ここはいったん京をあけわたし、

比叡山に登り、改めて京を攻めるというもの。

野武士、土豪などが得意とするゲリラ戦術である。

多勢に無勢を考えればこのとき取り得る最善の策であっただろう。

しかし、この時公家たちが一斉に声をあげる。

「一戦もせずに逃げ出すとはどういうことだ」

「天皇の権威にかかわる」

「尊氏がそんなに怖いか」

「臆病者」

そんな声に押しきられるように楠木正成は、尊氏迎撃の命を

受けて後醍醐天皇の御前を退出する。

「お上はこの正成に死ねと言われるようだ」

討死を覚悟した正成は京から西国街道を西へ向かう。

そしてここ桜井の宿で数え年11歳の嫡子正行にあとを託す。

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「わいはあの尊氏をしばき倒しに行くけど、多分やられてまうから

おまえは家帰って力をつけてあの天皇はんを助けたれ」

同行をせがむ正行にこう諭した後、兵庫へ向かいご存知

”湊川の合戦”で弟正季と共に戦死する。

この戦死直前に正季と語った言葉、

「七回生まれ変わって朝敵をやっつけたる、

河内のおっさんをなめたらあかんどー」

これが”7生報国”という言葉を生み、太平洋戦争でも

日本軍の合言葉になってしまうという悲しい歴史につながる。

死をも顧みず”忠”を貫いた正成には感動しますが、

これを戦意高揚の道具に使ってはいけませんよね。

ちなみにこの正行も正成と同じように南朝への”忠”を貫き

”四条畷の合戦”で戦死するし、その後も、楠木家の一族郎党は

すべて南朝方として戦いつづけていく。

太平記の名場面でした。

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